8月19日木曜日は、松桜閣を出た後、東進して富山地鉄舌山(シタヤマ)駅に出ました。
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ここから北陸新幹線に並行して東北へ進むと若栗中村農村公園があります。
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ここは若栗城跡〔黒部市指定史跡〕です。
戦国時代の築城と推定される若栗城は「たちのしろ」とも呼ばれる平城で、黒部四十八瀬と呼ばれた黒部川扇状地南岸に位置します。
当時、氾濫を繰り返す黒部四十八瀬は橋も無く北陸街道通行の障害になっていましたが、軍事的には重要な防衛ラインとなっており、石田城・堀切西館・堀切東館・小梅山遺跡・長安寺館・善念寺館等の平城が連なっていました。
敷地は東西約100m・南北約80mの規模で、方形に堀と土塁を巡らし、土塁はコの字状に北・西・南の三方を囲む形態で東側が開けており、今も高さ約5m・幅10〜20mの規模で残っています。
発掘調査では、珠洲・越前・越中瀬戸・伊万里等の焼き物が出土しており、土塁の基礎固めの石列や建物に関する石敷きも見つかってます。
『越能賀三州志』では東西40間・南北42間で、高さ7尺の垣上げがあったとされ、館主に総田太郎左衛門の名が出ています。また、「文政元年城跡館跡由来申伝之趣書上申帳」によれば城主不悪凡斎右京輔(フアクボンサイウキョウノスケ)が居住したとされます。
地元の言い伝えでは、右京輔の妻若しくは娘の女大将が上杉謙信勢の猛攻に際し、飛んで来た屋を竹筒で受け止めて打ち返す方法で奮戦したとの逸話が残されています。
閉口した上杉勢は細くて小さい管矢を用いたため、城方は打ち返す事が出来なくなり、城の外に落ちている矢を拾い集めようとしたところを強襲されて壊滅してしまいました。
女大将も管矢に当たって戦死したため、右京輔は自刃して若栗城は落城したと伝えられています。
石垣の残滓(ザンシ)っぽい物もありましたが、後世の物かもしれません。
土塁の外側には堀跡っぽい物も確認出来ました。
周囲は一面の水田です。
土塁上には若栗天満宮が建てられています。
祭神は、勿論、菅原道真です。
城跡からは立山連峰が一望に出来ました。
若栗城跡から更に東北へ向かうと浄土真宗大谷派法城山長安寺があります。
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長安寺は、元は長方寺と呼ばれ、戦国時代には庭田某が拠る平城型の居館でした。黒部四十八瀬南岸防衛ラインの一角を担い、北岸の入膳(ニュウゼン)城と相呼応していました。承応元(1652)年頃、長方寺から長宝寺が分離しましたが、同音の寺院が近接するのは紛らわしいため、寛延2(1749)年に長安寺と改称したのです。
山門〔黒部市指定文化財〕は、茅葺(カヤブキ)入母屋造(イリモヤヅクリ)の一間一戸楼門で、上層と正面は5.45m・奥行3.63m、下層は前幅3.45m・奥行2.22m、軒高は10mです。
前面軒下に「法城山」の山号額を掲げ、後面軒下に牡丹を図案化した透彫の彩色彫刻を蛙股(カエルマタ)状に配しています。下層の中央部に両開扉を蝶番(チョウツガイ)で取り付け、閂(カンヌキ)を指しています。両脇には小屋根を載せた袖壁を配し、右側の袖壁に潜り戸があります。屋根は棟を竹で押さえていますが、これは、この土地の民家の屋根形式に倣った物です。
本堂です。
鐘楼です。
長安寺の周囲には、戦国時代の遺構の土塁〔黒部市指定文化財〕が巡らされています。
土塁は東西81m・南北59mのコの字形で、北側が空いています。現在は幅約4m・高さ2m内外で石垣で覆われていますが、旧土塁は高さ1m・幅2mの規模だったと考えられています。
南北に山門・通用門のため二か所が切断されており、黒色土で盛られて、内部には河原石の混入が少ないのが特徴です。表面は河原石で覆われ、竹や杉が植えられていました。
《続く》
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