24日土曜日は、不破関跡から関ヶ原駅へ徒歩で戻りつつ、関ヶ原古戦場〔史跡〕の一部も訪れました。関ヶ原古戦場は46年前に巡った事があるんですが、また改めて隅々まで巡ってみたいですね。
不破関東城門(ヒガシキモン)跡から東南へ向かうと、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)・経津主命(フツヌシノミコト)・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・比売神(ヒメノカミ)を祭る春日神社があります。
https://www.google.com/maps/@35.3592971,136.4605239,19z
ここは関ヶ原合戦時、東軍の福島正則が陣を構えた場所です。
尾張国清洲240000石を領していた正則は7200人を率いて参戦しており、17000人を擁する西軍の主力たる宇喜多秀家隊と激戦を展開しました。
春日神社には月見宮(ツキミノミヤオオスギ)大杉〔関ヶ原町指定天然記念物〕があります。
幹周5.8m・樹高25m・推定樹齢800年に達します。
つまり、関ヶ原合戦時、福島正則はこの樹の下に陣を構えていた事になります。
春日神社から東へ進むと、関ヶ原町立関ヶ原中学校の敷地内に東軍の藤堂高虎・京極高知(キョウゴクタカトモ)陣跡があります。
伊予国板島(宇和島)80000石を領した高虎は2400人、信濃国飯田100000石を領した高知は3000人を率いて参戦しており、平塚為広・大谷吉継隊等と交戦しています。
関ヶ原中学校から東北へ向かうと、西首塚があります。
合戦翌日、関ヶ原15000石の領主だった竹中重門(タケナカシゲカド)が内大臣徳川家康の命を受けて、戦死者の遺体収容に当たり、東西二ヶ所に首塚を設けたのです。
石碑は宇垣一成(ウガキカズシゲ)陸軍大将の揮毫(キゴウ)です。
こちらは胴塚です。
凌霄花(ノウゼンカズラ)が咲いていました。
西首塚から東海道本線の線路を越えて国道365号線を北上すると、東軍の田中吉政陣跡があります。
三河国岡崎100000石を領した吉政は3000人を率いて参戦し、石田三成隊と交戦しました。戦後に伊吹山中で三成を捕縛する大功を挙げたのも吉政です。
田中吉政陣跡の北隣には徳川家康最後陣跡があります。
開戦当時、東方の桃配山を本陣としていた内大臣家康は、最終局面で本陣を前進させて西軍に止(トド)めを刺そうとしました。
そして、この本陣前を島津義弘隊が強行突破して行ったのです。
徳川家康最後陣地の東南に東首塚があります。
こちらの方が西首塚よりも大規模な感じです。
首級墳碑です。
関ヶ原宿本陣の主人だった古山平四郎(コヤマヘイシロウ)が、文化14(1817)年に関ヶ原合戦の風化を防ぐために建てた物です。
東首塚の東隣には松平忠吉・井伊直政陣跡があります。
家康の四男で武蔵国忍(オシ)100000石を領した忠吉は3000人、徳川四天王の一人で上野国120000石を領した直政は36000人を率いて参戦し、宇喜多秀家隊や島津義弘隊と交戦しました。
《続く》
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