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2021年07月26日00:01

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伊吹山日帰り紀行2 伊吹山の歴史

 今日は日本百名山に数えられている伊吹山の歴史を紹介しましょう。山頂エリアは琵琶湖国定公園エリア内です。
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 伊吹山は約3億年前に噴火した海底火山であったとされており、ウミユリやフズリナの化石が大量に発見される事から、地層には約2億5000年前の古生代に海底に堆積した層が含まれていると考えられています。その時期にサンゴ礁が形成された事で石灰質の地層が堆積し、中腹より上部は古生代二畳紀に形成された石灰岩が広く分布しています。
 そして古生代末期〜中生代初期の大造山運動により、日本の大部分と共に海上に姿を現し、その後、衝上(ショウジョウ)断層が生じて山頂付近は石灰岩で覆われる事となったのです。山頂部では、カレンフェルトや巨大な石灰露岩などのカルスト地形が見られます。石灰岩には塊状の亀裂が多く、水透しが良く表土は乾燥し易いのが特徴です。
 石灰岩層は山肌に降った雨などを浸透させるため、山麓には石灰岩層から抽出されたカルシウム分などミネラルを多く含む湧水が豊富で、特に滋賀県米原市醒井(サメガイ)の居醒(イサメ)の泉は有名です。
 伊吹山は両白山地南端の三国岳から伸びる尾根を中心とした伊吹山地の最南端に位置する半独立峰で、伊吹山地の最高峰でもあります。
 冬に日本海側からの季節風の通り道となり、濃尾平野では冬季に北西の方角から吹く季節風を「伊吹おろし」と呼びます。亜寒帯湿潤気候で豪雪地帯としても知られます。また、旧平年値(1971〜2000)に於ける月別平均気温は稚内とほぼ同じ値となっています。
 伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、『古事記』では「牛のような大きな白猪」、『日本書紀』では「大蛇」とされています。『古事記』では西暦113年に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の帰途に伊吹大明神と戦って敗れ、居醒の泉(米原市醒井)で少し回復したものの、のちに悪化して伊勢国能褒野(ノボノ)で亡くなった伝説が描かれています。
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 7世紀には役小角(エンノオヅヌ)が伊吹山に登って弥高寺と大平寺の原型を建立したと伝えられ、8世紀には白山を開山した泰澄がこの山に分け入って白山信仰を伝えました。そして、9世紀に伝来した密教と結びついた修験の場として、多くの寺院が山中に建立されるようになったのです。仁寿年間(851〜854)には僧三修(サンジュ)によって、伊吹山の南側の中腹の尾根上に山岳寺院の弥高寺が建立された事が『日本三代実録』に記録されています。弥高寺は伊吹山寺と呼ばれる定額寺となり、大平寺・長尾寺・観音寺と共に伊吹四大寺と呼ばれ、後に伊吹護国寺と改称されました。
 伊吹山は薬草の宝庫としても知られ、ヨモギ・トウキ・センキュウが「伊吹三大薬草」とされて、古くから利用されて来ました。更に多くの植物を配合して「伊吹百草」の名で百草茶や入浴剤などが周辺の山麓で生産され、お灸に使用される艾(モグサ)の産地としても有名でした。『小倉百人一首』には左近衛中将藤原実方(?〜999)の「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」が収録されていますが、これは「恋の熱い思いはさながら伊吹山のもぐさのお灸ようだ」の意味です。
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 鎌倉時代には修験者による山岳宗教が一層発達し、一時は数百の堂房が山中に建って殷賑を極めました。弥高寺は戦国時代に京極氏や浅井氏により城郭の一部として改造されましたが、永正9(1512)年の兵火で炎上し、その後、山麓に坊舎が移されました。
 なお、永禄10(1567)年に美濃国を制覇した織田信長は、南蛮人から入手した薬草を栽培する菜園を伊吹山に作らせたとされ、その菜園にはポルトガル人が自国で用いていた約3000種のハーブが移植されたとされています。
 天正元(1573)年の浅井氏滅亡の際の兵火で伊吹山の山岳寺院は殆どが焼失してしまい、地名が残されているのみですが、江戸時代前期には円空が伊吹山の太平寺で暮らし、修行の末に木彫仏を残しているため、江戸時代でも山岳修行の山と認識されていた模様です。
 しかし、寛文元(1661)年に伊吹山の石灰岩が、漆塗りの原材料に用いる消石灰として利用される様になると、鉱山としても注目される様になりました。
 元禄2(1689)年に『奥の細道』の旅を終えた松尾芭蕉は大垣で「そのままよ 月もたのまし 伊吹山」の句を詠んでいます。
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 明治時代になると、石灰岩採掘場としての活用が盛んになりますが、大正5(1926)年に
中山再次郎が関西地方で初めてとなるスキー大会を伊吹山で開催したのを機に、滋賀県側南斜面に伊吹山スキー場が設けられました。因(チナ)みに伊吹山では昭和2(1927)年2月14日に世界最深積雪記録となる積雪量1182cmを記録しており、現在でもこの記録は破られていません。
 大東亜戦争後は、コンクリート・セメント需要の急増により石灰岩採掘が一層本格化し、昭和24(1949)年に近江鉱業が弥高採鉱場を開いたのに続き、昭和26(1951)年には住友大阪セメント伊吹工場が開発工事に着手するなど大規模採掘が進められ、南西の稜線は山容が変貌するまでに大きく削り取られてしまいました。このため、環境破壊への批判が高まり、昭和46(1971)年からは住友大阪セメント伊吹工場によって南西斜面の緑化活動が始められています。
 平成時代になると、スキー人気の低下と地球温暖化による積雪量の減少によって伊吹山スキー場の利用者は激減してしまい、平成20(2008)年に休業、5合目まであったリフトは撤去されてスキー場は閉鎖されてしまいました。3合目まであったゴンドラは登山用に暫く運行していましたが、平成23(2011)年から運休しており、滋賀県側からの登山は不便になりました。
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《続く》
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