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2020年11月18日03:22

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香芝紀行10 武烈天皇陵

 1日日曜日は志都美(シズミ)神社に参拝後、北側に隣接する人皇第25代武烈天皇〔位;499〜506〕の傍丘磐坏丘北陵(カタオカノイワツキノオカノキタノミササギ)へ赴きました。
 https://www.google.co.jp/maps/@34.5606899,135.6973935,18z
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 武烈天皇(489〜506)は本名を小泊瀬稚鷦鷯尊(オハツセノワカササギノミコト)と云い、人皇第24代仁賢天皇〔位;488〜498〕の第一皇子で、母は人皇第21代雄略天皇〔位;457〜479〕皇女の春日大娘皇女(カスガノオオイラツメノヒメミコ)です。
 『日本書紀』によると494年に6歳で皇太子とされ、498年に父帝が崩御すると、大連(オオムラジ)物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)の娘影媛(カゲヒメ)を争って敗れていた平群鮪(ヘグリノシビ)を大伴金村(オオトモノカナムラ)に命じて誅し、鮪の父である大臣(オオオミ)平群真鳥(ヘグリノマトリ)も撃滅して即位したとされますが、10歳の子供の行為ではあり得ない話です。『古事記』には平群鮪との紛争は叔父の人皇第23代顕宗(ケンソウ)天皇〔位;485〜487〕の故事として記されており、そちらが真実だと思われます。
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 即位後は、泊瀬列城宮(ハツセノナミキノミヤ)を都とし、物部麁鹿火と大伴金村を大連に任じますが、『日本書紀』によると数々の残虐行為を行ったとされます。即ち「妊婦の腹を裂いて胎児を見た」「爪を抜かせて芋を掘らせた」「木登りをさせた上で、木を切り倒したり射落としたりして殺して楽しんだ」「馬の交尾を女達に見せた上で股間をチェックし、濡れている者を殺した」等の異常な行為が記されています。越前国から大和国へ乗り込んだ次の継体天皇の即位を正当化するために武烈天皇を暴君に仕立て上げたとの説もありますが、継体天皇は武烈天皇の妹を皇后として即位の正統性を確保していますから、わざわざ武烈天皇を暴君に仕立てる必然性は無く、意外と本当の暴君だったのかもしれません。
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 武烈天皇は西暦506年12月8日に子供を残さないまま崩御し、この結果、人皇第16代仁徳天皇〔位;313〜399〕の子孫の男子は絶えてしまいました。
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 この傍丘磐坏丘北陵は宮内庁によると山形古墳だとされていますが、単なる自然丘の可能性が高く、北葛城郡広陵町の大塚陵墓参考地・大和高田市の磐園(イワゾノ)陵墓参考地・狐井城山(キツイシロヤマ)古墳《https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977493832&owner_id=250900》等が真の武烈天皇陵だとする説が有力です。
 御陵は志都美神社社叢〔奈良県指定天然記念物〕と一体化して豊かな自然林となっています。
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《続く》
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