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2020年11月16日18:17

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香芝紀行8 大坂山口神社(逢坂) / 顕宗天皇陵

 1日日曜日は鹿島神社から西進して、大山衹命(オオヤマツミノミコト)・素盞鳴尊(スサノオノミコト)・神大市比売命(カムオオイチヒメノミコト)を祭る大坂山口神社〔延喜式名神大社〕〔村社〕を訪れました。神大市比売命は素盞鳴尊の二番目の妻で稲倉魂命(ウカノミタマノミコト)等を産んだとされる女神です。
 https://www.google.co.jp/maps/@34.5471053,135.6900234,17z
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 『古事記』によると「人皇第10代崇神(スジン)天皇の時に赤い楯と矛を以って墨坂(スミサカ)の神を祀(マツ)り、黒い楯と矛をもって大坂の神を祀る」とされ、墨坂神社は大和に入る東の入口に当たる宇陀市榛原(ハイバラ)にあります。これに対して、大坂山口神社は西国から大和への関となる西の入口に当たり、延喜式神名帳葛下郡にも「大坂山口神社大 月次新嘗」と記載されています。しかし、現在、大坂山口神社と称する神社は、当社の外に西方の穴虫にも存在しています。
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 度会延経(ワタライノブツネ;1657〜1714)の『神名帳考証』は当社が式内社だとしていますが、他の研究では悉く穴虫社の方を式内社に比定しています。
 寛永15(1368)年の棟札によれば牛頭天王(ゴズテンノウ)社と称していたとされ、明治時代の「神社明細帳」には天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・建速須佐之男命(タテハヤスサノオノミッコト)・稲倉魂命を祭神としつつ、延喜式内社に当たると称して大山祇命も祭神に加えたとされています。
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 拝殿です。
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 屋根の一部しか見えませんが、本殿〔奈良県指定文化財〕です。
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 檜皮葺(ヒワダブキ)三間社流造(サンゲンシャナガレヅクリ)で、寛永15(1638)年の建立(コンリュウ)ですが、細部に室町時代後半の古い建築様式を残しています。
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 大坂山口神社所蔵の神像〔香芝市指定文化財〕は、鎌倉時代と江戸時代の物が大半で、戦国時代頃の物も一部伝わります。鎌倉時代の牛頭天王像が2体残されているため、本社が鎌倉時代には牛頭天王社と称していた可能性を強く示唆しています。また、平安・鎌倉・江戸時代に分けられる狛犬は、本殿の左右に祀られ、本殿の補修や改築の度に運命を共にする性格から、本殿あるいは神社の来歴を考える上で、重要な手掛かりとなりますね。
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 大坂山口神社の宝物類〔香芝市指定有形民俗文化財〕の中には、和銅5(712)年銘の竹筒に納められている「宮座文書」があります。祭礼の記録と考えられていますが、前後欠失のため文書名や時代は不詳です。本社の来歴を記す「大坂神社記」は、表紙を除き十三帖あり、巻末に「享保6(1721)年」と記されています。
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 境内近くでは鶏頭(ケイトウ;Celosia argentea)が巨大な花を咲かせていました。
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 続いて東方へ向かいました。県道105号線の高架下を潜って進むと、南北方向に走る国道168号線に出ます。それを少し北上すると、右手に人皇第23代顕宗(ケンソウ)天皇〔位;485〜487〕の傍丘磐坏丘南陵(カタオカノイワツキノミナミノミササギ)があります。
 https://www.google.co.jp/maps/@34.5503848,135.6989673,18z
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 顕宗天皇(450〜487)の本名は弘計王(ヲケノミコ)で、人皇第17代履中(リチュウ)天皇第一皇子の市辺押磐皇子(イチベオシハノミコト)(の長子)の第3子ですが、西暦456年に父が人皇第21代雄略天皇〔位;457〜479〕によって殺害されると、兄の億計王(オケノミコ)と共に丹波国与謝(ヨサ)郡へ逃れ、後に播磨国明石郡を経て美嚢(ミノウ)郡の志染(シジミ)の石室に隠れ住みました。兄弟共に後続の身分を隠して縮見屯倉首(シジミノミヤケノオビト)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていました。しかし、西暦479年に雄略天皇が崩御、二年後にそれを知った弘計王は新室の宴の席で歌と唱え言に託して皇族の身分を明かしました。子が無かった人皇第22代清寧(セイネイ)天皇は翌年二王を宮中に迎え入れて兄王を皇太子とし、弘計王にも皇子(ミコト)の身分を認めたのです。
 484年に清寧天皇が崩御すると、皇太子億計皇子は身分を明かした大功を理由として弟の弘計皇子に皇位を譲ろうとしますが、弘計皇子は拒否して譲り合いが続いたため、その間は姉の飯豊青皇女(イイトヨアオノヒメミコト)が執政を行いました。結果的に兄の説得に折れる形で485年に弘計皇子が第23代天皇として即位、兄の億計皇子が引き続いて皇太子を務めました。顕宗天皇は罪無くして死んだ父の雪辱を果たすべく雄略天皇陵の破壊を試みましたが、臣下に諭されて断念、以後は長く辺土で庶民として苦労した経験から善政を行ったと伝えられています。
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 顕宗天皇は487年4月25日に崩御しました。傍丘磐坏丘南陵は宮内庁によって前方後円墳と認定されていますが、奈良県大和高田市の築山古墳も宮内庁によって顕宗天皇陵の可能性がある磐園(イワゾノ)陵墓参考地とされており、狐井城山(キツイシロヤマ)古墳《https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977493832&owner_id=250900》が真の顕宗天皇陵だとする説もあります。
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《続く》
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