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2020年07月29日17:19

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ドイツ第三帝國軍人シリーズ49 Heinz Wilhelm Guderian陸軍上級大将《後編》

 1941年に入って対ソ戦準備が本格化すると、装甲集団は4個に増強され、グデーリアン上級大将の第2装甲集団は、ヘルマン=ホト上級大将の第3装甲集団と共にボック元帥麾下の中央軍集団に配属されてポーレン(ポーランド)総督府に駐屯する事となりました。第2装甲集団隷下には第24自動車化軍団・第46自動車化軍団・第47自動車化軍団が配され、5個装甲師団を含む計10個師団を有する極めて有力な部隊となっており、ブレストリトフスク要塞からベラルーシ共和国首府のミンスクを経てスモレンスク方面へ突進する事が期待されていたのです。なお、装甲集団は自前の補給部隊を持たないため、クルーゲ元帥の第4軍傘下に入る事となりました。
 1941年6月22日0315時、ソヴィエト撃滅を目指すバルバロッサ作戦が発動されると、第2装甲集団はソ連西正面軍を蹴散らしてブク川に達し、複数の橋梁を確保しましたが、ブレストリトフスク要塞が予想外の頑強な抵抗を示した上、ソ連の道路が非常に脆弱で、大型車両が通行すると路肩が崩落してしまうケースが続出したため、一日で80km驀進する計画が18kmしか果たせませんでした。しかし、23日からは猛進を続けて27日にはミンスクへ突入、北方から南下して来た第3装甲集団と手を結んで33万人ものソ連将兵を包囲して捕虜とし、戦車2500両・牽引砲1500門を鹵獲する大勝利を得たのです。28日にはブレストリトフスクから400km余のボブルィスクまで到達しています。
 しかし、7月3日に第2・第3装甲集団を正式に麾下に収めて第4装甲軍と改称された軍司令官のクルーゲ元帥は、装甲集団の突出を認めずに歩兵で側面や後背の残存部隊を掃討しながら進むべきだと考えていた上、ポーランド戦役の時からグデーリアン上級大将に遺恨を抱いていたため、第2装甲集団第47自動車化軍団麾下の第17装甲師団が連絡ミスからミンスク包囲網に加わらずにボリソフ方面へ突出してしまった件を利用してグデーリアン上級大将を軍司令部へ呼び付け「本来なら軍法会議モノだ!」と喚き散らしました。二人の感情的対立はこの後エスカレートする一方となります。
 また、同じ7月3日、第2装甲集団の前に初めてT34中戦車が姿を現しました。III号戦車の50mm砲やIV号戦車の短砲身75mm砲が全く通用しないこの怪物にドイツ軍は散々悩まされる事になるのです。
 しかし、第2装甲集団は猛進を続け、7月7日にはベレジナ川を渡河してボリソフを攻略、7月11日にはオルシャでドニエプル川を突破して7月16日には早くも所期の目標であるスモレンスクに到達したのです。しかし、この頃から補給不足が深刻になって来ます。旧ポーランド領地域の鉄道はドイツと同じ標準機でしたが、元来のソ連領地域の鉄道は広軌でしたから直通運転が出来ず、脆弱な道路網はトラックの通行にも支障を来していたのです。ただ、7月20日に後背で絶望的な徹底抗戦を続けていたブレストリトフスク要塞が漸く陥落したため、補給路はかなり安定する事となりました。
 7月23日にはソ連軍が強引な反撃に転じたため、スモレンスク地区ソ連軍の包囲殲滅は達成出来ませんでしたが、25万人もの捕虜獲得に成功したのです。なお、7月28日には第4装甲軍が第4軍の名称に戻され、第2装甲集団も「グデーリアン装甲集団」と改称されましたが、8月3日に旧名に復しています。
 この功績により7月17日付でグデーリアン上級大将には柏葉騎士十字章が授与され、7月29日に総統副官ルドルフ=シュムント陸軍大佐が装甲集団司令部を訪れて勲章を手渡しました。
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 グデーリアン上級大将がシュムント大佐に今後の戦略目標に関する総統の考えを尋ねたところ、「総統はウクライナの資源地帯を戦略目標と考えている」との事だったので、グデーリアン上級大将はモスクワへ吶喊する事が望ましいとの意見を伝えてくれる様に依頼しました。また陸軍参謀総長ハルダー大将もモスクワ攻略を最優先すべきだと主張して猛然と総統に抗議し、モスクワかウクライナかの「神学論争」が始まってドイツ中央軍集団の進撃はストップしてしまったのです。
 8月4日、総統がボリソフの中央軍集団司令部を訪れたため、グデーリアン上級大将はボック元帥やホト上級大将と共に総統に対してモスクワ進撃の重要性を説きました。しかし、総統はウクライナ制圧に拘泥していたため、グデーリン上級大将は独断で東進する事を決意し、8月9日までにモスクワへの進撃路の南方側面に当たるロスラヴリ地区占領に成功しました。
 ところが、これを聞いた総統は、ロスラヴリ地区から第2装甲集団を南下させればキエフ周辺のソ連軍大部隊の後背に回り込めると思い付き、南方軍集団所属のクライスト上級大将率いる第1装甲集団を南方から北上させて大包囲網を形成するプランを着想してしまったのです。ロスラヴリ地区占領は全くの藪蛇となったのでした。
 8月23日、グデーリアン上級大将は総統に翻意を促すため、参謀総長ハルダー上級大将と共にオストプロイセン大管区にある総統大本営ヴォルフスシャンツェへ赴きましたが、総統は「私の将軍達は、戦争経済について全く御存知無い」と言い放って決意を変えませんでした。
 こうして、総統説得を断念したグデーリアン上級大将は次善の策として短期間でウクライナ制圧を果して早期にモスクワへ向かえる様に発想を転換、8月25日にロスラヴリを発した第2装甲集団は南方へ猛進し、9月14日にはキエフ東方のロムヌィへ到達、16日に南方から驀進して来た第1装甲集団とロフヴィツァで邂逅を果し、キエフ近辺のソ連4個軍を包囲する事に成功したのです。19日にはキエフが陥落、26日に包囲網内のソ連軍が全て降伏して66万5000人もの捕虜が獲得されました。
 こうしてヒトラー総統もモスクワ進撃を許可する事となり、中央軍集団がモスクワ攻略を目指すタイフーン作戦の準備が開始されました。北方軍集団に配属されていたエーリッヒ=ヘープナー上級大将麾下の第4装甲集団も中央軍集団へ配置転換され、3個装甲集団と歩兵中心の3個軍がクレムリンを目指す事となったのです。
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 第2装甲集団は9月23日に東北へ旋回して、先ずはモスクワ西南のオリョールを目指す事となり、9月30日に攻勢を開始しました。10月2日にタイフーン作戦が正式発動されると、3日にオリョール攻略に成功、5日には第2装甲集団は自前の補給部隊を持つ第2装甲軍に昇格しました。軍旗はグデーリアン上級大将のイニシャルである「G」の文字でした。
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 しかし、当時、補給線は伸び切り、自動車部隊による補給は当てにならなくなっていたため特に燃料不足が深刻で、第2装甲軍は空軍に頼んで燃料を空輸して貰っている有様でした。しかも、例年より冬将軍が早く訪れて、10月6日には最初の雪が降り、溶けた雪によって初冬のロシア名物“ラスプーチツァ”、即ち「泥の季節」が訪れてしまったのです。殆ど舗装されていないロシアの道路は泥濘と化して歩兵は膝上まで泥に埋まり、装輪車両は立ち往生、キャタピラを装備した戦車ですら走行不能になるケースが続出したのです。
 それでもグデーリアン上級大将は進撃を続け、10月10日にムツェンツク、25日にヤースナヤポリョーナを攻略して、北方の第4軍と協同してブリャンスク付近のソ連軍15個師団を包囲する事に成功しました。また、北方のヴィヤジマ付近でも第3装甲集団と第4装甲集団がソ連軍45個師団の包囲に成功しており、モスクワ突入の機が熟したと思われましたが、補給部隊が泥濘に沈んでしまい、悪天候で空輸も困難な状況下では進撃は物理的に不可能でした。しかも、対ソ開戦時に904両あった第2装甲軍の戦車は256両しか残っておらず、第2装甲軍は消耗し切っていたのです。
 しかし、11月になって気温が下がると路面が凍結して装輪車両の通行が可能となったため、何とか態勢を整えた中央軍集団は11月15日に攻勢を再開します。この冬は記録的な大寒波が襲来しており、第2装甲軍戦区の気温は11月12日にはマイナス15℃、13日にはマイナス22℃に達していました。
 第2装甲軍はモスクワ南方のトゥーラを攻撃しますが容易に敵防衛線を突破出来なかったため、東方へ迂回し、24日日にはミハイロフを占領してトゥーラ包囲網を完成させた上でモスクワに迫りましたが、モスクワ南郊を流れるオカ川の線で進撃を阻まれてしまいました。しかも、防寒具等の冬装備は遥か後方で滞留したまま前線へ届かず、厳寒で戦車のガソリンが凍結して動けなくなる事態も続出するなど、最早モスクワ占領が不可能な事が明白になって来たのです。
 こうして12月5日に至って遂に第2装甲軍は進撃を停止、クレムリンまで8km地点まで迫っていた第3装甲集団も同様の事態に陥ったのです。そうした状況下の12月6日には極東地域から回されて来たソ連軍大部隊による大反攻が開始され、中央軍集団各部隊はアメリカ参戦の報を聞きながら敗走を始めたのです。しかし、総統は「撤退は許さん!撤退は許さん!」と喚き続け、中央軍集団司令官ボック元帥はモスクワ前面から撤退して、後方で防衛線を築こうとしたため12月19日に解任されてしまい、後任にはグデーリアン上級大将を憎悪していたクルーゲ元帥が就任しました。クルーゲ元帥は早速ハルダー参謀総長やシュムント総統副官に電話を掛けて「グデーリアンは臆病風に吹かれて逃げ出そうとしている卑怯者だ」などと事実無根の悪口雑言を垂れ込み、この情報は総統の耳にも達していました。
 この様な中、グデーリアン上級大将は総統に直談判して撤退許可を取り付けようと考え、12月20日に総統大本営ヴォルフスシャンツェへ飛んだのです。しかし、余計な事を吹き込まれていた総統は撤退許可を出さず、更に軍司令部へ戻ったグデーリアン上級大将は、25日に僅かに部隊を移動させた事をクルーゲ元帥から電話で咎められ、「部隊を敗走させながら、事実に反するデタラメな報告をして来た」と罵倒された上、「貴官の不祥事を総統閣下に報告してやる」と嘲笑されたのです。そして、本当にクルーゲ元帥のチクリによって、12月26日にグデーリアン上級大将は第2装甲軍司令官を解任されてしまいました。グデーリアン上級大将は部下に別れを告げる際、ヤケクソになったのか、右手を高く掲げるローマ式敬礼をしながら“Heil Hitler!”と叫びましたが、この件は総統の心証を良くして、後日の要職起用に繋がったと言われています。
 グデーリアン上級大将は親友の陸軍総司令部人事局長ボーデヴィン=カイテル歩兵大将の配慮で退役は免れ、「指揮官予備」として現役に留まる事が出来ました。1941年12月31日にベルリンへ戻ったグデーリアン上級大将は、翌1942年1月に讒言をしたクルーゲ元帥を軍法会議に提訴しようとしましたが、総統から却下されています。総統はシュムント大佐を第2装甲軍司令部に派遣して顛末を調査させており、クルーゲ元帥の讒言が事実無根である事を把握していましたが、さすがに大激戦の最中に新着任したばかりの軍集団司令官を軍法会議に掛けさせる訳には行かなかったのです。
 一方、厳寒のロシアでの激務と解任劇のストレスは、元々狭心症の持病があったグデーリアン上級大将の健康を蝕んでいたため、同年3月末から約一ヶ月間、バーデン大管区の温泉保養地バーデンヴァイラーで夫人と共に休養してベルリンへ戻りましたが、その際、総統から125万ライヒスマルクの特別下賜金を与えられています。これは上級大将の俸給の50年分以上に該当する大金であり、将兵に人気の高いグデーリアン上級大将を総統が懐柔しようとした措置でした。第一次大戦後、ポーランド政府によって先祖伝来の土地を接収されていたグデーリアン上級大将は、その金で旧ポーランド領のヴァルテラント大管区ダイペンホーフで大規模農地と屋敷を購入し、再び地主身分に復帰したのです。屋敷の持ち主だったポーランド人は強制退去させられました。
 また、グデーリアン上級大将はカイテル大将や、オーストリア進駐を共に行って親しくなっていたゼップ=ディートリヒSS上級大将を通じて軍務復帰を働きかける猟官運動を臆面も無く行っていました。
 そして、スターリングラードの第6軍が降伏して東部戦線が危機を迎えていた1943年2月17日、陸軍総司令部人事局長兼総統首席副官シュムント少将から電話を受け、ウクライナのヴィニツァに設けられていた総統大本営ヴェアヴォルフへの出頭を命じられたのです。19日にヴェアヴォルフに赴いたグデーリアン上級大将に対し、シュムント少将は新設の装甲兵総監就任を打診しますが、嘗てお飾りポストの快速部隊長官に祭り上げられた苦い経験を持つグデーリアン上級大将は、新ポストは総統直属とし、陸軍総司令部兵器局や軍需大臣に対する指揮権、更には空軍や武装親衛隊の装甲部隊の教育・編成権も持たせよと過大な要求を突き付けました。これに対し、グデーリアン上級大将を引見したヒトラー総統は要求を全て認めると約束し、2月28日にグデーリアン上級大将は装甲兵総監に就任したのです。ここで言う装甲兵とは、戦車のみならず、自動車化歩兵・捜索装甲車・重突撃砲・対戦車砲までをも包含しており、グデーリアン上級大将は極めて多くの権限を手にしたのでした。
 グデーリアン上級大将は、友人で同様の立場にあった航空機総監エアハルト=ミルヒ空軍元帥を訪ねて各種のアドヴァイスを受けましたが、特にヒムラーSS国家長官やゲッベルス宣伝相等と親しくなっておく事が肝要だと忠告され、それに従ってナチス党幹部との交流を深めています。
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 同年3月9日、グデーリアン上級大将はヒトラー総統や陸軍参謀総長クルト=ツアイツラー歩兵大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1957116475&owner_id=250900》を前に壮大な装甲部隊新設構想を披歴、突撃砲の装甲兵編入構想以外は全て承認されましたが、既に米英軍の戦略爆撃によってドイツの兵器生産能力は減衰しており、絵に描いた餅に過ぎない話でした。
 この3月末、元ライプツィヒ市長のカール=ゲルデラー博士がグデーリアン上級大将を訪ねて来ました。そして、ゲルデラー博士は、元陸軍参謀総長ベック上級大将を中心にして、ヒトラーを排除する計画が進展中である事を告げ、新政権樹立への協力を要請したのです。元々ナチズムに共鳴していたグデーリアン上級大将は、要職に復帰したばかりでしたし、ベック上級大将には遺恨がありましたから、当然、この話を断りましたが、他言しない事も約束しました。
 同年5月4日、ミュンヘンオーベルバイエルン大管区ミュンヘン市に於いてソ連軍のクルスク突出部を遮断するツィタデレ作戦の検討会議が開かれましたが、ここで中央軍集団司令官クルーゲ元帥と再会したグデーリアン上級大将は第2装甲軍司令官解任劇の際の恨み辛みをぶつけて罵り合いになりました。その結果、クルーゲ元帥は事もあろうにグデーリアン上級大将に決闘を申し入れ、ヒトラー総統に立会人を依頼したのです。中世以来の伝統である名誉を掛けた決闘は形式的には第三帝國でも合法でしたが、ヒトラー総統は当然穏便な解決を望み、止む無く階級が下のグデーリアン上級大将が詫び状を書いて事態を収拾しましたが、実に屈辱的な事でした。
 そして同年7月のクルスク大戦車戦でドイツ装甲部隊は消耗してしまい、以後は東部戦線は崩壊、装甲部隊も後退を繰り返すしか無い状況へと追い込まれて行ったのでした。
 こうした状況下の同年8月、装甲兵総監部参謀長のヴォルフガング=トマーレ大佐が中央軍集団作戦参謀ヘニング=フォン=トレスコウ大佐と共にグデーリアン上級大将の自宅を訪ねて来ました。実は、この二人はベック上級大将の一味で、改めてグデーリアン上級大将を一味に引き込む説得をしに来たのです。二人は総統暗殺計画が企画されている事を打ち明けましたが、トレスコウ大佐が“仇敵”クルーゲ元帥も一味に加わっていると口を滑らしてしまったため、グデーリアン上級大将は激高して参加を拒否したのでした。
 1944年になると、米英軍のフランス上陸への備えが問題となり、海岸線への装甲部隊配置を主張するB軍集団司令官エルヴィン=ロンメル元帥や国防軍最高司令部(OKW)統帥局長アルフレート=ヨードル陸軍上級大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1903479752&owner_id=250900》と、後方に集中させるべきだとする西方総軍司令官ルントシュテット元帥や西方装甲集団司令官レオ=ガイヤー=フォン=シュヴェッペンベルク男爵大将等が激しい論争を繰り返していました。グデーリアン上級大将は後者に与してロンメル元帥を説得しましたが同意を得られず、結局、ヒトラー総統の仲裁で中途半端な所に装甲部隊が配置された状態で、6月6日のノルマンディー上陸作戦を迎えてしまったため、B軍集団装甲部隊は有効な反撃を行えなかったのです。
 そうした中、7月18日に航空省偵察機兵監兼陸軍総司令部付空軍将官のカール=ヘニング=フォン=バルゼヴィッシュ空軍少将がグデーリアン上級大将を訪ねて来ました。バルゼヴィッシュ少将は嘗て第2装甲軍付空軍連絡統制官を務めていたため、グデーリアン上級大将とは昵懇の間柄で、彼もまたベック上級大将の一味だったため、近いうちに総統暗殺が実行される事を告げ、グデーリアン上級大将にも参加を求めて来たのです。
 しかし、グデーリアン上級大将は計画に参加する訳でも、ゲシュタポに報告する訳でも無く、19日は予定に無かった東方の部隊視察に出かけて日和見を決め込んだのでした。そして、トマーレ少将が翌日にべルリンからオストプロイセンへ移動予定だった戦車部隊の出発を一日遅らせて欲しいと電話して来たため、グデーリン上級大将は、暗殺決行が20日である事を察知した様です。そして、20日午前中に視察を終えたグデーリアン上級大将はべルリンの装甲兵総監部には戻らず、ダイペンホープの私邸に戻って情勢の推移を見守る事としたのです。
 1944年7月20日1242時、総統大本営ヴォルフスシャンツェで遂に総統暗殺を狙った爆弾テロが決行されましたが、ヒトラー総統は軽傷で済み、その日の深夜までにクーデター一味は鎮圧されたのでした。当時、ヒトラー総統は陸軍総司令官と陸軍参謀総長を兼ねて喜んでいましたが、参謀総長の職務を代行していたアドルフ=ホイジンガー中将や、後任の参謀総長に擬されていた国防軍最高司令部陸軍局長ヴァルター=ブーレ歩兵大将が事件で負傷したため、「数少ない信頼出来る高級将官」であるグデーリアン上級大将が装甲兵総監兼任のまま参謀総長に起用される事となったのでした。厳密には参謀総長は総統兼任のままであり、グデーリアン上級大将は「事務取扱」とされましたが、一般には「代行」では無く正式の参謀総長と認識されていましたので、以下、参謀総長と記す事とします。
 グデーリアン上級大将がクーデター派と関係していた事はバレずに済みましたので、グデーリアン上級大将は素知らぬ顔で全ての参謀将校に対し「ナチズム国家を無条件に擁護すべし」との命令を発し、陸軍軍人の敬礼は全てローマ式に統一する事としています。右手を高く掲げる例の敬礼は、元々古代ローマの敬礼方式だったのをムッソリーニが復活させ、それをヒトラーが真似ただけの物ですので、ローマ式敬礼と呼ぶのが正しいのですが、ユンカー階級出身の陸軍将校の中には「薄汚い成り上がり者の敬礼方式」と見做して伝統的なプロイセン式敬礼を続けていた者も多かったのです。
 なお、グデーリアン上級大将が遺恨を抱いていたクルーゲ元帥とベック上級大将は総統暗殺未遂事件によって自決に追い込まれたため、グデーリアン上級大将は留飲を下げる事となりました。
 さて、当時の第三帝國では陸軍参謀本部が東部戦線を管轄し、OKWが他戦線を管轄していましたから、グデーリアン上級大将は装甲部隊の大半を東部戦線に投入すべしと主張、同年12月のヴァハトアムライン作戦、即ちアルデンヌ大反攻には猛反対していました。しかし、既に崩壊していた東部戦線を立て直す事は最早不可能であり、グデーリアン参謀総長が作戦立案の腕を振るう余地は残されていなかったのです。
 1945年に入り、ソ連軍がベルリンに迫ると、妄想に基づくデタラメな命令を連発する総統とグデーリアン上級大将が激論を交わすのが日常化してしまいましたが、遂に3月28日、ヒトラー総統はグデーリアン参謀総長に6週間の休養を取る様に命じ、「どうせ6週間後に全ては終わっている」と言い放ったのでした。こうして事実上解任されたグデーリアン上級大将はベルリンで総統と心中する運命から免れたのです。或いは、この休暇は総統がグデーリアン上級大将に対して与えた最後の恩情だったのかもしれません。
 当時、ダイペンホープの私邸は既にソ連軍に占領されていたため、グデーリアン上級大将は4月1日に夫人と共にミュンヘン近郊のエーベンハウゼンにあるサナトリウムに入りましたが、アメリカ軍が接近して来たためミュンヘンオーベルバイエルン大管区ディートラムスツェルへ夫人を逃がし、自らはティロルウントフォラルベルク大管区に移転していた装甲兵総監司令部へ赴きました。
 そして、参謀総長更迭から丁度6週間後の5月9日に停戦協定調印の報を聞いたグデーリアン上級大将は「総統には予知能力があったのか!」と感嘆、翌日、ザルツブルク大管区ツェルアムゼーでアメリカ軍に投降したのでした。
 捕虜となったグデーリアンは各地の収容所を転々とした後、同年9月に始まったニュルンベルク軍事裁判に証人として出廷した後、米国務省文化交流局一般諮問委員会や米陸軍歴史局欧州部作戦史ドイツ課によるインタヴューに積極的に応じ、ソ連情報を欲しがっていたアメリカに全面協力したのです。この結果、ソ連やポーランド政府による戦犯訴追要求や連合軍による非ナチ化審査も米軍の庇護によって免れたのみならず、かなりの金額の報酬まで手に入ったのでした。当時、グデーリアンは再び不動産を失っており、銀行口座も凍結されていたため、非常に有難い事でした。更に、グデーリアンは巧みな情報操作で、自分は政治から距離を置いた公明正大で純粋な軍人だったとのイメージを米軍に植え付ける事に成功しますが、これは西ドイツ再軍備を考え始めたアメリカにとっても「残虐行為を働いたのは親衛隊のみであり、国防軍は清廉潔白だった」との神話をデッチ上げる材料として好都合だったのです。
 1948年6月16日に釈放されたグデーリアンは、イギリスの軍事研究家リデル=ハート元陸軍大尉に勧められて、回想録“ Erinnerungen eines Soldaten”『電撃戦』の執筆に取り掛かりますが、1951年に上梓された回想録にはスラヴ人蔑視などの露骨な極右思想が記されていたため、ハート元大尉が翻訳した英語版の出版は難航します。しかし、ハート元大尉の尽力で多額の印税が見込める英語版出版が決定、その見返りとしてグデーリアンは「装甲部隊による電撃戦構想は主にハート元大尉の著作に由来している」との一文を書き加えてやります。その結果、1952年に出版された英訳本“Panzer Leader”のお陰で、それまで大して有名では無かったリデル=ハートの名も世界に轟く事となったのでした。ところが、英訳本によって多額の印税収入を得たグデーリアンは印税の25%をハートに支払う約束を守ろうとせず、独り占めしてしまったのでした…。
 グデーリアンは1954年5月14日、バイエルン州シュヴァンガウの自宅で喀血して死去しました。葬儀には内務大臣の特別許可を得て国境警備隊の一隊が参加し、弔銃斉発が捧げられました。当時、西ドイツ連邦軍はまだ発足していなかったのです。
 グデーリアンは元帥杖こそ手にする事が出来ませんでしたが、第三帝国の軍人の中ではロンメル・マンシュタインと並んで最も名声を博した人物です。しかし、それは回想録等による自己PRの巧みさによって齎された部分が大きかった様です。
 彼の墓は青年将校時代の想い出の地ゴスラーに設けられています。
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