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2020年07月28日01:32

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ドイツ第三帝國軍人シリーズ49 Heinz Wilhelm Guderian陸軍上級大将《中編》

 1938年初頭に起きた国防大臣ブロンベルク陸軍元帥《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1771659299&owner_id=250900》と陸軍総司令官フリッチュ上級大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1816372547&owner_id=250900》の解任に伴う粛軍で多くの高級指揮官が退役に追い込まれましたが、装甲部隊司令官ルッツ装甲兵大将も対象となってしまい、同年2月4日、グデーリアン少将が後任の司令官に就任、続いて2月10日には中将へ昇進して、装甲部隊司令部を改編した第16装甲軍団長となりました。
 そして、グデーリアン中将は3月10日1600時、陸軍参謀総長ベック砲兵大将に呼び出され、第2装甲師団を率いてオーストリア併合作戦に参加せよとの極秘命令を受けたのです。グデーリアン中将は軍団長に就任したのに1個師団しか率いないのは面白くないと考えて、ゼップ=ディートリヒSS大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1853660879&owner_id=250900》麾下の武装親衛隊LSSAH連隊を臨時に軍団指揮下に置いて作戦に参加させる事とし、同日2000時にLSSAH連隊と共にベルリンを出発、11日2000時に部隊終結地のバイロイト大管区パッサウへ到着しました。同日深夜に第2装甲師団も駐屯地のヴュルツブルクから400kmを踏破してパッサウへ到着しましたが、軍団には補給部隊が存在しないため燃料確保が問題となり、また、突然の作戦発動だったため、パッサウ―ウィーン間280kmの軍用地図すら無い有様でした。そこでグデーリアン中将は市販の観光地図を用いて進軍する事とし、12日0900時に国境を越えたのです。燃料確保の方は併合を歓迎するオーストリアのガソリンスタンド経営者達が喜んで供給してくれたため杞憂に終わりました。こうして、グデーリアン中将は13日0100時にウィーンへ到着して大歓迎を受けましたが、680kmもの長距離進軍をした第2装甲師団の戦車の30%近くが故障して落後してしまい、自動車全体でも17%が落後してしまったため、参謀本部内では装甲師団の機動能力に疑問を投げかける向きもありました。しかし、グデーリアン中将は突然の作戦発動にも拘わらず長距離を走破出来た事は大成功だと考えていたのです。
 ヒトラー総統もグデーリアン中将の実績を高く評価し、以後、オペラや晩餐会に中将を招いて個人的に親交を深める事となりました。
 続いて、同年10月3日にグデーリアン中将麾下の第16自動車化軍団はチェコスロヴァキア共和国のズデーテン地方進駐作戦の先陣も切る事となり、第1装甲師団・第13自動車化歩兵師団・第20自動車化歩兵師団を麾下に置いて作戦を無事に終わらせました。この時にはヒトラー総統も軍団司令部と行動を共にしています。
 オーストリアとズデーテンの併合に於ける機械化部隊の役割を高く評価したヒトラー総統は、自動車化部隊と騎兵部隊を統合管理する快速部隊長官職を設けてグデーリアン中将を任命する事としました。ところが、グデーリアン中将と権限争いをして犬猿の仲だった運輸次官兼陸軍総司令部交通部隊監督局第6部長アドルフ=フォン=シェル大佐の策謀で、快速部隊長官は指揮権も人事権も教範起草権も無いお飾りポストにされてしまったのです。陸軍総司令官ブラウヒッチ上級大将や陸軍総司令部軍務局長のフリードリヒ=フロム中将も「総統に取りって出過ぎた真似をしている」グデーリアン中将を閑職に追いやる事に賛成していました。
 当然、この人事に不満を抱いたグデーリアン中将は親友の陸軍総司令部人事局長ボーデヴィン=カイテル少将の仲介で総統に直談判しましたが、人事は覆らず、グデーリアン中将は11月23日に装甲兵大将に昇進の上、翌日、快速部隊長官に就任したのです。
 予想通り、快速部隊長官職は何の権限も無い空しい地位であり、グデーリアン大将は無為な日々を過ごしていましたが、1939年夏に対ポーランド情勢が風雲急を告げて来ると、グデーリアン大将は再び実戦部隊指揮官へ復帰する事となり、8月22日にポーランドと国境を接するポンメルン大管区へ向かう命令を受けて、8月26日付で第19自動車化軍団長に就任したのです。第19自動車化軍団は、フェヨドール=ボック上級大将麾下の北方軍集団に属する第4軍(司令官;ギュンター=フォン=クルーゲ砲兵大将)麾下に置かれ、軍団麾下には第3装甲師団・第2自動車化歩兵師団・第20自動車化歩兵師団が配されていました。
 1939年9月1日0445時、ポーランド侵攻作戦“ファルヴァイス”が発動され、第19自動車化軍団は国境を越えてポーランド回廊へ侵攻しました。グデーリアン大将は装甲指揮車に乗って、右翼に位置した第3装甲師団隷下の第3戦車旅団に同行する「前方指揮」を実行しましたが、味方の砲兵の誤射で大将の指揮車の間近に砲弾が落下したり、燃料補給が追い付かなかったり、敵騎兵旅団の攻撃に怯えた第2次自動車化歩兵師団長バデル中将が退却を命じようとしたりと、数々の齟齬が生じましたが、概して攻撃は順調に進展しました。ポーランド騎兵旅団が馬上槍を振りかざしながらドイツ戦車師団へ突撃を敢行して玉砕したとの伝説が生まれたのもこの時です。この伝説は、ドイツ歩兵に射殺されたポーランド槍騎兵の死体を見たイタリア人ジャーナリストが妄想を膨らませてデッチ上げた話でした。
 第19自動車化軍団はポーランド回廊を守備する敵ポモルスカ軍を蹴散らして9月4日にはヴァイクセル川のラインに達し、5日には軍団司令部にヒトラー総統を迎えました。
 当時、北方軍集団司令部は第19自動車化軍団をオストプロイセン大管区から南下するゲオルク=フォン=キュッヒラー砲兵大将麾下の第3軍の支援に充てる考えでしたが、グデーリアン大将は、ワルシャワ近辺の敵が東方へ逃れるのを阻止するため、東方の要塞都市ブレストリトフスクへ突進するプランを上申し、陸軍総司令部の許可を取り付けました。
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 そして、第2次自動車化歩兵師団に代えて第10装甲師団とレッツェン要塞歩兵旅団を隷下に納めた第19自動車化軍団はオストプロイセン大管区を東進して、9月9日にナレフ川北方に出現し、グデーリアン大将の陣頭指揮でナレフ川と渡河した軍団は猛進を続けて9月13日にはブレストリトフスク前面に到達、先陣を務めた第3装甲師団は14日に市街地占領に成功しました。頑強な抵抗をつづけたブレストリトフスク要塞もグデーリアン大将の陣頭指揮で9月17日に陥落しました。グデーリアン大将は更に軍団を一丸として東部ポーランドを席捲するつもりでしたが、第4軍司令官クルーゲ大将が師団ごとに分散させて多方面へ進撃させろと命じて来たため、グデーリアン大将は猛反発して険悪な空気が流れました。
 ところが、同じ9月17日、ソ連軍がポーランド国境を越えたとのニュースが飛び込んで来たのです。グデーリアン大将は独ソ不可侵条約秘密議定書の件を知らなかったため、ソ連軍がポーランド軍支援のため参戦したのかと思って驚愕しましたが、すぐに陸軍総司令部から真相を知らされ、ブレストリトフスク以東はソ連軍占領地域となっているため進撃を禁じられました。この結果、クルーゲ大将との対立は表面化せず、ブレストリトフスクに留まった第19自動車化軍団は、9月22日にセミヨン=クリボシェイン准将麾下のソ連第29軽戦車旅団を迎え、野戦パレードを開催して要塞を引き渡したのでした。なお、パレード翌日の朝食会でクリボシェイン准将は慣れないドイツ語で乾杯の音頭を取りましたが、“Freundschaft”と“Feindschaft”を言い間違えて「両国の永遠の敵意のために!」と述べてしまい、二年後の両国の未来を予言した形になってしまいました…。
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 第19自動車化軍団はポーランド戦役に於いて10日間で300kmもの進撃をする離れ業を見せながら、戦死者650名、負傷・行方不明者1586名と、全兵員の4%の損害しか受けておらず、圧倒的な強さを見せつけたのでした。また、グデーリアン大将の故郷クルムはドイツ帝国領に復帰し、ヴェストプロイセン大管区に属する事になりましたが、不動産の奪回は出来ませんでした。
 グデーリアン大将は10月27日にベルリンの総統官邸で騎士十字章を授与されますが、昼餐会では総統がソ連に対して激しい敵意を持ち続けている場面を見せられています。
 第19自動車化軍団は11月中旬に西方戦役に備えるためデュッセルドルフ大管区デュッセルドルフ市を経てモーゼルラント大管区コブレンツへ移動し、ゲルト=フォン=ルントシュテット上級大将麾下のA軍集団に属する装甲集団に配される事となりました。装甲集団司令官はエーヴァルト=フォン=クライスト騎兵大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1754036950&owner_id=250900》です。当時、A軍集団参謀長を務めていたマンシュタイン中将は第一次大戦当時のシュリーフェン計画の焼き直しではなく、装甲部隊でベルギー南部アルデンヌ高原を突破して連合軍の後背へ迂回する画期的なプランを練っていましたが、戦車がアルデンヌ高原を突破出来るかどうかを知るために、陸大同期生のグデーリアン大将を招いて相談を持ち掛けました。先次大戦でアルデンヌ高原を突破した経験を持つグデーリアン大将は地図を慎重に検討した上で、戦車部隊の突破は充分に可能だとの結論をマンシュタイン中将に告げる事となります。
 マンシュタイン中将は「新プランの策定など出過ぎた真似をしたため」陸軍総司令官ブラウヒッチ上級大将と参謀総長フランツ=ハルダー砲兵大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1923995468&owner_id=250900》に睨まれてポーランドへ左遷されてしまいましたが、ヒトラー総統への直訴でマンシュタイン計画が採用される事となり、クライスト装甲集団がアルデンヌ高原を突破してムーズ川を渡河する事となったのです。ハルダー参謀総長はムーズ川渡河後は歩兵部隊の到着を待つように指示していましたが、グデーリアン大将は第19自動車化軍団を敵後背へ突進させる決意を固めており、1940年3月15日に総統官邸で開かれた軍司令官会議で総統の同意を取り付ける事に成功しました。但し、敵後背への迂回後の進路については「最高司令部が決める事」とされ、グデーリアン大将が提案したドーヴァ―海峡への突進案は保留とされたままになりました。
 こうして、1940年5月10日、西方侵攻作戦“ファルゲルブ”が発動され、第1装甲師団・第2装甲師団・第10装甲師団・グロースドイッチュラント歩兵連隊を隷下に置いた第19自動車化軍団は、2個師団しか配備されていなかったベルギー軍を一蹴してアルデンヌ高原を突破、12日にはフランス領に突入してムーズ川の線に到達したのです。そして13日には第3航空軍の的確な直協支援もあってムーズ川渡河に成功、橋頭保を確保しました。
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 ハルダー参謀総長・ルントシュテットA軍集団司令官・クライスト装甲集団司令官等は何れも歩兵部隊の到着を待つように命じて来ましたが、グデーリアン大将はこれを無視して14日に第19自動車化軍団をソンム川北岸沿いに西方へ吶喊させ、連合軍主力の後背に回り込む事に成功したのです。なお、15日にクライスト装甲集団は第12軍隷下となっています。
 第19自動車化軍団は敵部隊がいない後背地を疾走して連合軍の戦線を崩壊させました。フランスには随所にガソリンスタンドがありましたから、燃料補給の心配も必要無かったのです。ところが、ガラ空き状態になっている南方側面から横撃される事を恐れたヒトラー総統は第19自動車化軍団の停止を命令、17日早朝にはクライスト大将が軍団司令部へ飛来してグデーリアン大将の命令違反を激しく叱責しました。これに反発したグデーリアン大将は自らの解任を要求、クライスト大将も怒りに任せて軍団指揮権を第2装甲師団長ルドルフ=ファイエル中将に移す決定をしてしまいます。
 しかし、さすがに大功を立てたグデーリアン大将の解任は出来ないと考えたルントシュテット上級大将は、17日午後に第12軍司令官ヴィルヘルム=リスト上級大将を軍団司令部へ派遣してグデーリアン大将を慰留、軍団司令部を動かさずにおけば「威力偵察」を続行して良いとの提案を行いました。グデーリアン大将はこれを受け入れて指揮権を回復し、ドーヴァー海峡への突進が再開されたのです。また、同日、ハルダー参謀総長は全機械化部隊をクルーゲ上級大将麾下の第4軍隷下に置いて連合軍主力を包囲殲滅する事を決断しています。
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 この17日にはシャルル=ド=ゴール大佐麾下のフランス第4機甲予備師団が、第19自動車化軍団の先陣を切っていた第1装甲師団に待ち伏せ攻撃をかけてかなりの損害が生じる事態が発生しています。この時は第3航空軍の攻撃でド=ゴール師団を撃退する事に成功しましたが、戦車の性能自体はフランス軍の方が遥かに上である事を思い知らされた一幕でした。
 5月19日、ハルダー参謀総長に説得されたヒトラー総統はドーヴァー海峡への突進を許可し、第1装甲師団は同日中に要衝アミアンを攻略しました。第2装甲師団も1日で90kmも驀進して5月21日0200時にアブヴィルでドーヴァー海峡に到達、連合軍主力部隊の包囲網が完成したのです。グデーリアン大将は海峡諸港を制圧して連合軍の逃げ道を遮断する戦術を採用する事とし、第1装甲師団にカレー、第2装甲師団にブーローニュ、第10装甲師団にダンケルクの攻略を割り当て、22日に総攻撃を実施する事を決定したのです。
 ところが、21日にイギリス軍が重装甲のマチルダII歩兵戦車を先頭に立ててアラスで反攻に転じ、第2軍団所属の第7戦車師団に痛撃を与える事態が発生しました。ドイツ軍のIII号戦車の37mm砲やIV号戦車の短砲身75mm砲は英軍重戦車に全く通用しなかったのです。この時、第7師団長エルヴィン=ロンメル少将はスペイン内戦の戦訓に従って、88mm高射砲18型《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1817337375&owner_id=250900》で英軍撃退に成功しました。この事態に怖じ気付いた総統はアラス周辺を装甲師団で防御せよとの命令を発し、ダンケルク攻略に当たる筈だった第10装甲師団はクライスト装甲集団の予備部隊として引き抜かれてしまいましたが、ブーローニュは25日、カレーも26日に攻略されています。
 この間、23日にはA軍集団司令官ルントシュテット上級大将はクライスト装甲集団の消耗を心配して停止命令を出していましたが、ブラウヒッチ陸軍総司令官とハルダー参謀総長はルントシュテット上級大将の消極的態度に激怒して、全装甲部隊を隷下に置く第4軍を、攻撃的なボック上級大将麾下のB軍集団隷下に移す決定をしました。この決定は総統には報告されませんでした。
 ところが、24日早朝にA軍集団司令部を訪れたヒトラー総統は、自分の知らない内に重要な軍部隊の所属移管が行われた事を知って激怒し、全装甲部隊の進撃停止を厳命したのです。この決定の背景には、航空大臣兼空軍総司令官ヘルマン=ゲーリング元帥が「空軍力だけで連合軍を殲滅してみせる」と安請け合いしていた事も影響していました。
 こうして、グデーリアン大将が切歯扼腕する前で、連合軍はダンケルクからの撤退戦を粛々と行い、悪天候のためドイツ空軍の攻撃は不充分な形でしか行えなかったのです。
 5月26日になってルントシュテット上級大将から新たな状況を知らされた総統は装甲部隊停止命令を撤回し、27日0800時に進撃が再開されましたが、既にイギリス軍主力は脱出を果たした後でした。6月1日にはダンケルク総攻撃が開始され、4日朝に完全制圧が完了して多数のフランス軍将兵が捕虜となりましたが、イギリス軍主力を取り逃したのは痛恨の極みでした。
 一方、グデーリアン大将は5月28日に総統からフランス全土制圧を目指す第二弾作戦への参加を命じられ、6月1日にはクライスト装甲集団が分割されて、第39自動車化軍団と第41自動車化軍団を隷下に持つ新装甲集団が誕生、グデーリアン大将が司令官に就任する事となりました。隷下の2個軍団は何れも2個装甲師団と1個自動車化歩兵師団を有しており、グデーリアン大将は6個師団を率いる身となったのです。
 1940年6月9日、フランス全土制圧を目指すファルロートが発動され、A軍集団第12軍隷下に置かれたグデーリアン装甲集団はスダン南方からスイス国境にかけてマジノ線に拠って展開しているフランス4個軍の後背に回り込む任務を与えられました。グデーリアン装甲集団は忽ちにして要衝ブザンソンを攻略し、17日にはあっさりとスイス国境に到達してフランス4個軍の包囲に成功しています。
 この間、14日にはパリも無血開城されており、意気消沈したフランス共和国首相アンリ=フィリップ=ペタン陸軍元帥は6月22日に休戦協定調印に応じたのでした。
 こうして、フランス撃滅に大功を立てたグデーリアン大将は7月19日に上級大将へ昇進し、11月16日には第2装甲集団司令官に就任しました。
《続く》
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