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2020年07月27日00:03

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ドイツ第三帝國軍人シリーズ49 Heinz Wilhelm Guderian陸軍上級大将《前編》

 ハインツ=ヴィルヘルム=グデーリアンは「電撃戦」“Blitzkrieg”の生みの親として知られ、ドイツ国防軍最後の陸軍参謀総長(厳密には事務取扱)でもあります。
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 グデーリアンは、1888年6月17日にドイツ第二帝国のプロイセン王国ヴェストプロイセン州クルム(現;クヤヴィ)に於いて、フリードリヒ=グデーリアン陸軍中尉と妻イールタの長男として生まれました。二つ下の弟にフリッツ=ルードヴィヒがいます。グデーリアン家は17世紀にブランデンブルク地方かポンメルン地方から移住してきたとされ、平民身分ながら大地主となっていました。父フリードリヒは一族で最初に陸軍将校になった人物で、平民ながらユンカー階級に準ずる家柄だったため、中将にまで昇進して1914年に退役しています。また、母方のキルヒホーフ家も平民身分の大地主で、こちらの家からは多数の軍人が輩出されています。
 ハインツ少年は父の転勤に伴い、1891年にエルザスロートリンゲン帝国直轄州コルマールに転居して1897年に同地の小学校を卒業、同市のギムナジウムへ進学しました。父は1900年に同州ザンクトアヴォルトへ転勤しましたが、グデーリアン少年はコルマールに留まり、1901年4月1日にバーデン大公国の首府カールスルーエ市の陸軍幼年舎に弟フリッツ=ルードヴィヒと共に入学しました。
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 続いて1903年3月に帝都ベルリンのプロイセン王国陸軍士官学校へ入学、1905年2月に少尉候補生となりました。この間、ハインツ少年は国粋主義的歴史家であるハインリヒ=フォン=トライチュケやゲルマン民族至上主義を唱える英国人ヒューストン=チェンバレンの著作を多数愛読して健全な思想を育んで行きました。
 1907年2月28日に士官学校を卒業したグデーリアン候補生は、父フリードリヒ=グデーリアン中佐が大隊長を務めるプロイセン王国陸軍ハノーファー第10猟兵大隊に着任しますが、4月10日にはエルザスロートリンゲン帝国直轄州メッツ市にある軍事学校(Kriegsschule;クリークスシューレ)に入学して正式の少尉任官を目指す事となりました。
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 そして軍事学校の将校任用試験に合格したグデーリアン候補生は1908年1月27日付で少尉任官を果たし、ハノーファー第10猟兵大隊第3中隊隷下の小隊長に就任しました。なお、父のフリードリヒ=グデーリアン中佐は同年12月17日にプロイセン王国ブランデンブルク州のブランデンブルク=アン=デア=ハーフェル市駐屯の“プリンツ=ハインリヒ=フォン=プロイセン連隊”連隊長として転任して行きました。
 1909年に一年後輩のボーデヴィン=カイテル少尉が同連隊に着任して来ると、グデーリアン少尉は親交を結び、生涯の親友同士になっています。
 1909年10月、第10猟兵大隊はハノーファー州ゴスラー市に移駐し、グデーリアン少尉はここで軍医エルンスト=ゲルネの娘マルガレーテと知り合って、1911年12月10日に婚約します。彼女は親友のカイテル少尉の親戚でもありました。続いて、第10歩兵旅団長となっていた父フリードリヒ=グデーリアン少将のアドヴァイスに従って、グデーリアン少尉は1912年10月1日にプロイセン王国ライン州コブレンツ市駐屯の第3電信大隊に転任して無線通信の技術を学び、同時にフランス語もマスターしました。
 そして、1913年10月1日にマルガレーテとの結婚式を挙げた後、10月3日に栄誉ある参謀将校になるための機関である陸軍大学入学が認められたのです。168人の同期生の中では25歳のグデーリアン少尉が最年少でした。同期生にはフリッツ=エーリッヒ=フォン=マンシュタイン中尉がいましたが、階級が違うせいか二人は余り親しくは無かった様です。教官団の最先任はリューディガー=フォン=デア=ゴルツ伯爵大佐でした。
 しかし、1914年6月28日のサライェヴォ事件によって欧州情勢が風雲急を告げ、8月1日にドイツ帝国がロシア帝国に宣戦布告すると、陸軍大学は閉鎖されて学生は8月2日付で原隊へ復帰する事となってしまいました。ところが、グデーリアン少尉は電信技術の腕を見込まれて、原隊ではなく第3軍第5騎兵師団第3無線局長に任命されて西部戦線へ配属され、ベルギー王国南部のアルデンヌ高原を突破してフランス共和国領内に進出しました。当時、ドイツ軍の前線では部隊の快進撃に電信線の延伸が追い付かず、有線通信が麻痺する事態になっていましたから、無線部隊は引っ張りだこで、グデーリアン少尉は9月9日のマルヌ会戦前後には、重い長距離無線機材を牽引して東奔西走していました。
 この間、8月23日にはマルガレーテ夫人が長男ハインツ=ギュンターを出産していますが、9月15日には父のフリードリヒ退役中将が病死し、弟フリッツ=ルードヴィヒ少尉が前線で重傷を負ったとの悲報も届き、公私共に波乱の日々となりました。
 グデーリアン少尉は無線通信業務での活躍を評価されて9月17日に第二級鉄十字章を受章、10月4日には西部戦線最右翼でイングランド海峡突進を命じられていた第4軍の第14無線局長に転じています。第4軍の突破は失敗に終わり、膠着した塹壕戦が始まりましたが、グデーリアン少尉は的確に任務を熟(コナ)し、11月8日には中尉昇進を果たしています。
 1915年5月17日、グデーリアン中尉は通信とフランス語の知識を買われて第4軍秘密情報機関副官に転任、働きが評価されて12月18日に大尉昇進を果たしました。1916年に入ると第5軍司令部に出向して2月9日に第5軍秘密情報機関副官に任命され、ヴェルダン要塞攻防戦に参加しています。この戦いでは双方の砲兵が大量の砲弾を注いでも殆ど効果が無かったため、グデーリアン大尉は、旧来の歩兵・騎兵・砲兵のみでは現代戦を勝ち抜く事は出来ない現実に直面した訳です。なお、同年9月15日、ソンムの戦いに於いてイギリス軍が戦車を世界で初めて線上に投入していますが、この段階ではグデーリアン大尉は特に関心を持っていなかった模様です。
 1916年7月18日、グデーリアン大尉は第4軍司令部に復帰して情報将校となり、11月18日に無線分野での活躍を評価されて第一級鉄十字章を受章しています。1917年4月3日には第4歩兵師団兵站参謀に就任しますが、陸大を卒業していないグデーリアン大尉は赤い線の入ったズボンを穿く正規の参謀科将校になった訳ではありませんでした。続いて4月27日には限定現地任用参謀として第1軍司令部に出向、5月には第52予備師団、6月には近衛軍団司令部、7月には第10予備軍団司令部と転々としながら限定現地任用参謀を務め、8月11日に第4歩兵師団司令部に復帰しますが、9月に第14歩兵連隊第2大隊長として久々のライン業務に就き、10月24日にC軍支隊司令部作戦参謀となっています。
 この時期のドイツ軍は、戦線膠着を打開するため、機関銃や火炎放射器で重武装した歩兵が敵陣を強行突破、前線の敵部隊殲滅は後続の通常部隊に委ねて急進し、後背の司令部や兵站拠点を急襲する「浸透戦術」を研究・実践しており、東部戦線では成功させていました。グデーリアン大尉も前線部隊を無力化してしまうこの機動力重視の戦術こそが勝利への秘訣だとして関心を抱いていたのです。
 さて、この当時のドイツ軍は陸大閉鎖のため、正規の参謀将校不足が深刻化していたため、有望な将校に四週間の厳しい講習を受けさせ、合格者を正規の参謀科将校とする制度を開始しました。講習はフランス占領地区のスダンで行われたためスダン講習と呼ばれましたが、グデーリアン大尉も1918年1月10日に第六期講習生に選ばれて2月8日に修了試験に合格、赤い線の入ったズボンを穿く超エリートの一員となったのでした。
 2月27日、グデーリアン大尉はC軍支隊司令部作戦参謀の配置のまま陸軍参謀本部付になり、4月8日には帝都ベルリンの陸軍ガス学校第71期課程学生として五日間に亙って毒ガス兵器について学んだ後、C軍支隊司令部作戦参謀に復帰、5月23日には第38予備軍団兵站監に就任しました。当時、事実上の軍事独裁政権を樹立していた陸軍参謀次長兼第一兵站総監エーリッヒ=ルーデンドルフ歩兵大将は西部戦線での大攻勢“ミヒャエル作戦”を強行中でしたが、8月8日に作戦失敗が明らかとなったため、第38予備軍団は右翼部隊の退却援護のため最前線に投入され、グデーリアン大尉は物資不足の中、補給任務に悪戦苦闘する事となりました。
 続いて9月20日にグデーリアン大尉はイタリア占領地ドイツ軍代表部作戦参謀へ転じて、代表のシェーファー=フォン=ベルンシュタイン男爵大佐と共にオーストリアハンガリー帝国軍が占領中のイタリア北部ウーディネにあるオーストリア第10軍司令部へ赴く事となりました。しかし、10月29日にオーストリア海軍兵士の革命蜂起が勃発、30日のヴィットリオヴェネトの戦いでイタリア軍に大敗と、既にハプスブルク帝国は崩壊し始めており、30日にイタリア入りしたグデーリアン大尉等はドイツ参謀本部からいきなり休戦交渉に出席する事を命じられて、白旗を掲げてイタリア軍支配地域に赴きました。しかし、オーストリア側がドイツ軍の関与を拒否したためオーストリア領へ送り返されてしまい、グデーリアン大尉等は混乱を避けてバイエルン王国の首都ミュンヘンへ向かいました。
 しかし、11月3日にはキール軍港でドイツ帝国海軍水兵の武装蜂起が勃発、11月7日にはミュンヘンでも革命が勃発する事態となったのです。グデーリアン大尉は11月8日付で第10軍団留守司令部に転属していましたが、同日、ミュンヘンで国王ルードヴィヒ3世が追放されてバイエルン共和国樹立が宣言されるのを目撃する事となったのです。そして11月9日、遂に帝都ベルリンでも革命が勃発、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命してしまいました。グデーリアン大尉は結局ミュンヘンから動けないまま11月11日の休戦協定調印日を迎えたのです。
 グデーリアン大尉は11月22日付でドイツ共和国陸軍第1軍団留守司令部付に転じましたが、11月26日に東部護郷軍司令部に派遣されました。東部護郷軍とは、11月13日にブレストリトフスク条約破棄を宣言したレーニン政権軍やポーランド人からオストプロイセンを防衛するためにエーベルト首相が設けた東部戦線諸部隊統轄組織で、12月1日に東部国境守備隊中央指揮所幕僚部に改称されたため、グデーリアン大尉は共和国陸軍省所属同幕僚部付となりました。1919年1月10日、陸軍参謀本部が東部で活動中の義勇軍組織統帥のためブレスラウに南部国境防衛司令部を設けるとグデーリアン大尉はそちらへ転属となり、4月16日には原隊であるゴスラーの第10猟兵大隊に転じましたが、その所属のままバルテンシュタインの北部国境防衛司令部付を命じられました。そして、5月30日には義勇軍の一つである鉄師団兵站参謀に転じています。鉄師団はラトヴィア共和国政府の要請を受けてソヴィエト赤軍と戦っていましたが、4月16日にラトヴィア共和国のウルマニス首相を放逐して傀儡政権を樹立した上で、5月22日に首都リガを赤軍から奪回する事に成功していました。しかし、この間、1000人近い民間人をアカと見做して殺戮していたため、国際的に強い非難を浴びており、グデーリアン大尉は鉄師団の独断専行を阻止して陸軍参謀本部の統制に服させるために派遣されたのです。
 しかし、鉄師団等の東部義勇軍を統帥していたのは、グデーリアン大尉の陸大時代の恩師であるフォン=デア=ゴルツ伯爵少将でしたし、ヴェストプロイセン州の地主階級出身であるグデーリアン大尉は東部の領土維持を重視していましたから、結局、鉄師団の行動に共鳴する事となってしまいました。
 この様な状況下の6月22日、ドイツ共和国政府はヴェルサイユ条約に調印、バルト海方面の支配は不可能となったため、7月6日、陸軍参謀総長ゼークト少将は鉄師団にリガ撤退を命じます。しかし、フォン=デア=ゴルツ伯爵少将は撤退命令を拒否し、8月23日には鉄師団をロシア白軍に編入して赤軍と徹底抗戦する事を表明したのです。当時、鉄師団の作戦参謀も兼ねていたグデーリアン大尉も、この抗命に同調していましたが、北部国境防衛司令部参謀長のヴィルヘルム=ハイエ大佐が8月24日にグデーリアン大尉を北部国境防衛司令部付として召喚したため、大尉が抗命罪に問われる事はありませんでした。鉄師団は、結局、ウルマニス首相派のラトヴィア正規軍に敗れて、同年末にオストプロイセンへ敗走する事となります。なお、グデーリアン大尉の故郷クルムはポーランド領に編入されてしまい、一族は大地主としての地位を失う事となりました。
 同年10月30日、グデーリアン大尉はハノーファーの第10旅団に転属となり、第10猟兵大隊改変縮小事務所付になりますが、抗命をした事実は重く、1920年1月16日に名誉ある参謀の職を解かれて第10猟兵大隊第3中隊長に左遷されてしまいました。ヴェルサイユ条約で下士官兵96000名・将校4000人に制限される事となったドイツ陸軍は大量の将校解雇を進めており、経歴に汚点が付いたグデーリアン大尉が国防軍に残れる可能性は低いと思われました。
 こうした中、3月13日にリュトヴィッツ男爵大将・ルーデンドルフ歩兵大将・フォン=デア=ゴルツ伯爵少将等の極右軍人がカップ一揆を起こしますが、グデーリアン大尉は一揆の主張に理解を示しながらも、さすがに参加は自重しました。そして、一揆に反発した極左勢力が武装蜂起すると、3月25日、グデーリアン大尉麾下の第3中隊はプロイセン州ヴェストファーレン郡ブルデルンに於いて極左暴力集団殲滅に成功、この功績が嘉されて6月18日にグデーリアン大尉は国防軍残留を認められたのです。
 その後、第10猟兵大隊は5月16日に第20歩兵連隊第3大隊に改変されましたが、グデーリアン大尉は第3中隊長に留まり、9月8日に第20歩兵連隊が第17歩兵連隊に改称されるとグデーリアン大尉は第11中隊長となっています。即ち、参謀職への復帰が出来ぬまま隊付将校を続けていた訳です。
 しかし、1921年12月23日付でミュンヘンの第7歩兵師団麾下第7自動車隊付の辞令が出て、グデーリアン大尉は自動車隊運用の技術的知識を獲得した後、参謀職への復帰が認められる事となりました。先次大戦で通信業務を担当していた実績が評価されての人事でしたが、当時、自動車部隊は輜重任務を主としていたため「後方部隊の豚」と嘲笑される立場でしたので、グデーリアン大尉は嘗ての抗命に対する懲罰人事だと受け止め、一時は退役まで考えましたが、不動産を失った身では軍務を続ける以外に食べる道は無く、結局、命令に従う事となりました。
 第7自動車隊長のオスヴァルト=ルッツ少佐は鉄道工兵隊出身で、先次大戦では自動車部隊長や野戦鉄道総監幕僚部等の職を歴任した交通部隊の専門家でしたから、自動車運用のノウハウをグデーリアン大尉に教え込み、グデーリアン大尉も自動車の軍事利用への関心を高める事となりました。当時のドイツはヴェルサイユ条約で戦車保有を禁じられていましたから、陸軍の機械化は装輪自動車に頼るしかなかったのです。
 1922年4月1日、グデーリアン大尉はベルリンの国防省交通部隊監督局第6部自動車部隊監督課に転属、当初予定されていた自動車輸送部隊運用のみならず、自動車修理・整備工場、燃料庫、施設建築、技官関係の仕事まで押し付けられたため、最初は不満を訴えていましたが、やがて懸命の努力で自動車関連の全分野に通暁する様になり、自動車化歩兵と装甲車両を用いた機動的防御戦の可能性に気付いたのでした。また、先次大戦で戦車部隊に属していて機械化部隊の研究を独自に進めていた第3自動車隊のエルンスト=フォルクハイム少尉と知り合って多くの教示や文献紹介を受け、戦車先進国イギリスの戦車関係の書物や論文を片っ端から読破、オーストリア共和国の戦車研究家フリッツ=ハイグルとも知り合います。こうして研究を重ねたグデーリアン大尉は1923年から24年にかけての冬に国防省兵務局(陸軍参謀本部の偽称)教育訓練部のヴァルター=フォン=ブラウヒッチ少佐《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1839536927&owner_id=250900》から自動車化部隊と航空機の協同をテーマとする兵棋演習の指導を委任されて成功させ、高い評価を受ける事となります。続いて1924年9月にドイツの代表的軍事専門誌である『軍事週報』に「自動車乗車部隊と防空」と題する論文を発表、以後、複数の論文を同誌に寄稿して、機械化部隊専門家としての評価を得る事となったのです。
 1924年10月1日、グデーリアン大尉はプロイセン州ポンメルン郡シュテティーンの第2歩兵師団参謀部指揮官補佐教習課程教官に就任します。ヴェルサイユ条約で陸軍大学再開が禁止されていたため「指揮官補佐教習課程」の名目で参謀将校養成が行われていたのですが、戦術と戦史を担当したグデーリアン大尉はナポレオン戦争や第一次世界大戦に於ける騎兵運用を実例に機動戦の重要性を強調した講義を行いました。
 グデーリアン大尉は1926年にスイスのローザンヌ大学に派遣されて語学教習を受け、フランス語通訳の資格を取得した後、1927年2月1日に少佐昇進を果たしています。
 1927年10月1日、グデーリアン少佐は国防省兵務局作戦部運用課員に転任し、自動車による部隊輸送の研究に当たる事となりました。当時のドイツ軍には僅かな自動車しかありませんでしたので、上層部は先次大戦時と同様に民間自動車を徴発する事を予定していましたが、これは膠着した陣地戦を前提とした計画であり、防戦一方で勝ち目が無い戦争しか想定されていなかったのです。
 グデーリアン少佐は1928年10月1日にベルリンの自動車部隊教導幕僚部戦術教官を兼任する事となり、戦車戦術の授業を担当しました。当時、国防省交通部隊監督局長のアルフレート=フォン=ボッケベルク少将は装輪装甲車・トラック・オートバイ等の自動車を全て編合した戦闘部隊編成を進めており、自動車に板製カヴァーを被せた模擬戦車を用いた戦車教育中隊も設立していましたので、グデーリアン少佐は彼等と協力しながら新戦術の考案に尽力したのです。1929年にはスウェーデン王国に四週間派遣されてLkII戦車の操縦もマスターしました。実はグデーリアン少佐が実物の戦車に触れたのはこれが初めてでした…。
 こうしてグデーリアン少佐は、戦車・自動車のみで構成された装甲師団を創設して敵中を突破し、敵主力の後背に回り込む機動戦術を考案するに至りました。即ち、先次大戦に於ける「浸透戦術」を機械化部隊で実現しようと考えたのです。実際、野外演習でグデーリアン少佐の戦術は成功を収めました。しかし、1929年2月に新交通部隊監督局長となったオットー=フォン=シュテュルプナーゲル少将は「装甲師団など妄想に過ぎない」としてグデーリアン少佐の提案を一蹴、連隊規模以上の戦車運用研究を禁止してしまったのです。
 そこで、嘗てのグデーリアン少佐の上官で、当時は交通部隊監督局幕僚長となっていたルッツ大佐が、実際に自動車大隊の指揮を取ってみる事を提案、1930年2月1日にグデーリアン少佐はベルリン郊外ランクヴィッツ駐屯の第3自動車大隊長に就任したのです。グデーリアン少佐は早速大隊を再編し、第1中隊を装輪装甲車とオートバイから成る装甲捜索中隊とし、第2中隊を模擬戦車を持つ戦車中隊、第3中隊を木製模擬火砲を持つ対戦車中隊として諸兵科連合の装甲部隊を出現させたのでした。
 ところが、これを不快に思ったシュテュルプナーゲル少将は第3自動車大隊が他部隊と共同演習をする事を禁じる嫌がらせを実施、グデーリアン少佐は小規模な運用実験しか行えませんでしたが、1931年2月1日に中佐昇進を果たしています。
 1931年4月1日にシュテュルプナーゲル中将が退役してルッツ少将が交通部隊監督局長に就任すると、同年10月1日にグデーリアン中佐を同局幕僚長に任命、グデーリアン中佐は漸く壮大な構想を実現出来る立場となったのです。
 ルッツ少将とグデーリアン中佐は装甲師団のみならず、装甲軍団創設も視野に入れていました。ドイツはヴェルサイユ条約で戦車保有を禁じられていた訳ですが、同条約未締約国であるソ連に秘密戦車学校を設け、1925年には主要兵器メーカーに戦車開発が極秘依頼されていたのです。1929年には農業用トラクターの名目で開発されたI号戦車《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1752949353&owner_id=250900》の試作品が完成していましたが、7.9mm機銃しか装備していないチャチな物でしたので、グデーリアン中佐は37mm対戦車砲装備のIII号戦車《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1811217737&owner_id=250900》、短砲身75mm砲装備のIV号戦車《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1849685493&owner_id=250900》の開発も命じ、繋ぎ役として20mm機関砲装備のII号戦車《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1775661238&owner_id=250900》の開発も進められました。
 当時、共和国国防軍では第4軍管区砲兵団長ルードヴィッヒ=ベック少将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1917014778&owner_id=250900》が中心となって基本教範改定が進められており、1932年に関係部署代表者が全て加わった上級査読委員会で教範原案の検討が行われた際にはグデーリアン中佐も列席しました。この際、騎兵に代わる自動車部隊による捜索能力が問題となったため、自動車化捜索演習が実施されて、1時間当たりの捜索能力は20kmと判定されました。因みに騎兵なら8km、歩兵なら4kmが限界ですから、自動車部隊の有効性は明白でした。
 1933年1月30日にヒトラー内閣が成立すると、グデーリアン中佐は新兵器展示会の実験演習を新首相に披露する機会を得ましたが、ヒトラー首相は装甲偵察部隊の迅速な移動能力に感嘆して絶賛したため、元々極右思想の持主であったグデーリアン中佐はナチズムに強い好意を抱く事となりました。
 また、ヒトラー首相はシュライヒャー前首相派軍事官僚の更迭を行ったため、陸軍の人事が大きく動きました。同年10月1日、グデーリアン中佐は大佐昇進を果たしますが、同日付で兵務局長に就任したベック中将は、将来ドイツが戦争に巻き込まれる場合、防御戦以外にはあり得ないと信じており、航空機や戦車等の新兵器を用いた攻勢戦略は想定していなかったのです。これは、ベック中将が防御的兵科である砲兵出身である事も大いに影響していました。
 このため、早急な装甲師団創設を求めるグデーリアン大佐はベック中将と激しく対立する事となりますが、1934年7月1日にはベック中将も3個装甲師団創設を認め、グデーリアン大佐が幕僚長を務めていた国防省交通部隊監督局が自動車戦争部隊司令部に改変されて装甲師団統轄に当たる事となり、幕僚長も参謀長に改称されました。1935年3月16日にヒトラー総統がヴェルサイユ条約破棄と徴兵制導入を宣言すると、ドイツ陸軍は急激な拡大を果し、9月27日には新兵科として「装甲兵」が設けられて自動車戦争部隊司令部は装甲部隊司令部に改称、グデーリアン大佐が引き続き参謀長を務める事となりました。
 同年10月15日、3個装甲師団が発足すると、グデーリアン大佐はマインフランケン大管区ヴュルツブルク市に司令部を置く第2装甲師団長に任命されました。しかし、後任の装甲部隊司令部参謀長に叙されたのは装甲部隊の素人に過ぎないフリードリヒ=パウルス大佐でしたから、グデーリアン大佐はこの人事を陸軍参謀総長ベック砲兵大将が自分を中央から遠ざけるために仕組んだ嫌がらせ人事だと思っていた様です。
 グデーリアン大佐は1936年8月1日に少将昇進を果たしますが、装甲部隊司令官ルッツ装甲兵大将から装甲部隊の意義を一般向けに説く書籍の出版を打診され、翌年、“Achtung Panzer!”『戦車に注目せよ!』を上梓しています。ここでグデーリアン少将は持論の装甲部隊による機動戦術のみならず、機動力の無い砲兵に代えて、戦術空軍による直協支援爆撃を重視する新戦術を解説し、三年後に自ら実践する事を予言しているんですが、周辺諸国の軍首脳部からは殆ど注目されませんでした。
《続く》
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