5日日曜日は、道の駅いちかわで昼食後、東京外環自動車沿いに北上して堀之内貝塚〔史跡〕を訪れました。
https://www.google.co.jp/maps/@35.7588504,139.914659,17z
堀之内貝塚は縄文時代後期から晩期の貝塚で、縄文時代後期前葉の標式土器形式である堀之内式の標式遺跡として知られています。
縄文海進期には半島状になっていたと推測されている下総台地西端近くの国分(コクブ)川右岸部の標高22m程度の尾根状の台地及びその斜面の谷津(ヤツ)に位置しています。
東西225m・南北120mの中央台状型の二方向砂泥質斜面に、鹹水(カンスイ)産の蛤(ハマグリ)・浅蜊(アサリ)・疣喜佐古(イボキサゴ)・沖蜆(オキシジミ)を中心とした貝殻が軒を連ねるように馬蹄型の貝塚を形成しており、特に縄文時代後期前葉の頃の貝層が厚いとされます。
東京に比較的近い事と、以前は未開発の山林であった事から早い時期から発掘が行われ、最初の踏査は明治16(1883)年に行われました。その後、明治34(1901)年に最初の発掘が行われ、続いて明治37(1904)年には東京人類学会の最初の遠足会が実施された際に埋葬された人骨が発掘され、更に大正6(1917)年にも同会33周年記念事業として遠足会が行われました。
大正10(1921)年の東京帝國大学による発掘に参加した理学部学生の山内清男(ヤマノウチスガオ;1902〜70)は出土土器を研究してこれを「堀之内式土器」と命名、昭和15(1940)年になってから発表しました。
戦後、昭和24(1949)年から翌年にかけて立教大学等が行った三度の発掘では、これまで注目されていなかった貝塚より下層の関東ローム層を発掘したところ竪穴式住居跡が発掘されました。昭和29(1954)年には日本人類学会70周年記念事業として、早稲田大学・慶應義塾大学・明治大学の合同発掘調査が行われて、初めて本格的な地形測量が行われています。
また、昭和35(1960)年に堀之内貝塚の貝の性格について、日常生活において食用などに用いられた貝であるとする東北大学助教授芹沢長介(セリザワチョウスケ;1919〜2006)と、貝塚を加工用の剥き身場と推定して干貝などの形で他の地域に移出されたとする明治大学学生の後藤和民(ゴトウカズヒト;1932〜2009)が論争を行っています。
更に昭和38(1963)年の明治大学の調査でほぼ全容が明らかにされ、昭和39(1964)年に国指定史跡となりました。昭和42(1967)年と昭和47(1972)年に指定範囲が追加されています。
堀之内貝塚に隣接して市川市立市川考古博物館があります。
昭和47(1972)年に開館し、昭和57(1982)年に鎌倉時代以後を扱う市川市歴史博物館が分離しました。
時代ごとに「第1室 最初の住民:先土器時代」「第2室 貝塚の形成:縄文時代」「第3室 農耕の開始:弥生時代」「第4室 古墳の出現:古墳時代」「第5室 律令の時代:奈良・平安時代」の五つの部屋に分かれて市内の出土遺物や史料を展示しています。
入館は無料で、事務室に申請すると写真撮影許可証を貰えます。
縄文時代早期の深鉢(フカバチ)型縄文土器です。
昭和33(1958)年に市川市内で発掘されたコククジラの骨格です。約5000年前の地層から出土しました。
約4000年前の縄文時代中期の市川付近の海岸線です。
市川市内の先史時代遺跡分布図です。
堀之内貝塚出土人骨です。
弥生時代の国府台(コウノダイ)遺跡分布図です。
国府台遺跡環濠集落の復元イラストです。
国府台遺跡出土弥生土器です。
古墳時代後期の鬼高遺跡出土土器〔市川市指定文化財〕です。
鬼高遺跡出土遺物〔市川市指定文化財〕です。
弥生時代中期から平安時代の複合遺跡である須和田遺跡出土の小型甕(カメ)です。
須和田遺跡出土の高坏(タカツキ)です。
下総国分寺で出土した8世紀の宝相華文軒丸瓦(ホウソウゲモンノキマルガワラ)です。
下総国分寺跡出土の須恵器(スエキ)です。
下総国府です。
下総国府で用いられた食器です。
下総国印です。
下総国分尼寺の伽藍配置です。
《続く》
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