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2020年01月20日00:19

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市川紀行17 弘法寺

 5日日曜日は、真間(ママ)の継橋(ツグハシ)から大門通を北上し、日蓮宗本山真間山弘法(グホウ)寺を訪れました。
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 天平9(737)年に行基が真間の手児奈(テコナ)《https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1974248694&owner_id=250900》の霊を供養するために建立した求法(グホウ)寺が始まりとされ、弘仁13(822)年に弘法大師空海が伽藍を構えて弘法寺と改称し真言宗寺院となりましたが、元慶5(811)年に至って天台宗へ転向しています。
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 建治元(1275)年、下総国に於ける日蓮宗の蔓延に危機感を持った時の住持了性(リョウショウ)法印が日蓮宗法花(ホッケ)寺の富木常忍(トキジョウニン)へ法論を挑みましたが、問答の末に敗北して放逐され、日蓮宗に乗っ取られてしまいました。その結果、常忍の養子日頂(ニッチョウ)が貫主となり、本尊の弘法大師像は武蔵国の真言宗五智山總持(ソウジ)寺へ移されました。元亨3(1323)年には大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受けけいます。
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 康暦2(1380)年には、比叡山延暦寺の学頭まで務めた天台宗の高僧玄妙が弘法寺に帰伏して日什と改名、顕本法華宗(ケンポンホッケシュウ)の祖となりました。
 室町時代には山下の砂洲に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展、長禄元(1457)年には武蔵国江戸城主太田道灌から茶室の寄進を受けています。
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 天正19(1591)年には江戸城主の権大納言徳川家康から朱印地30石を与えられ、元禄8(1695)年には水戸藩主の権中納言徳川光圀が来訪して茶室に遍覧亭という号を贈りました。江戸時代には紅葉の名所として知られ、諸書に弘法寺の紅葉狩りの事が記されています。
 明治21(1888)年の火災によって伽藍の大半が焼失してしまいましたが、明治23(1890)年に諸堂が再建されました。
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 明治の火災で燃えなかった仁王門です。
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 吽形(ウンギョウ)金剛力士像です。
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 阿形(アギョウ)金剛力士像です。
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 明治の火災で燃えなかった鐘楼です。
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 平成22(2010)年建立(コンリュウ)の祖師堂です。日蓮・日頂・富木常忍を祀る総檜建築で、前部は方形造(ホウギョウヅクリ)、後部は入母屋造(イリモヤヅクリ)となっています。正面五間・側面九面で、堂内の広さはは約80坪です。屋根瓦には行基が考案したとされる「行基葺」が取り入れられています。
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 祖師堂の東隣には伏姫桜(フセヒメザクラ)があります。樹齢400年以上の枝垂桜(シダレザクラ)で、県内有数の桜の名所となっています。『南総里見八犬伝』に登場する伏姫が名前の由来なんですが、詳細は不明です。
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 左が本殿、右が客殿です。本殿の本尊は釈迦如来と上行(ジョウギョウ)菩薩・無辺行(ムヘンギョウ)菩薩・浄行(ジョウギョウ)菩薩・安立行(アンリュウギョウ)菩薩の四大菩薩から成る一尊四士(イッソンシシ)霊像です。客殿は平成9(1997)年の建立です。
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 赤門と俗称される朱雀門(スザクモン)です。明治の火災で燃えなかった山内最古の建造物で、16世紀の建築と推定されています。
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 旧書院の真間道場(ママドウジョウ)です。
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 太刀六大黒尊天(タチダイコクソンテン)堂です。本尊の太刀大黒天神像は、日蓮が比叡山で修行中の建長元(1248)年にその姿を感受され彫刻した物で、以来建治2(1276)年まで片時も離さず肌身に付けていたとされます。
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 里見龍神(サトミリュウジン)堂です。
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 昭和26(1951)年、青森県弘前(ヒロサキ)市在住の小堀哲なる人物が「奥州に逃れていた里見の伏姫ゆかりの精霊の籠った白蛇と小鳥二羽の遺骸を祀っていたが、里見ゆかりの真間の山の土に返して欲しいとの神意が推察される」と言って来たため、庫裏(クリ)に仮奉安した上で、昭和33(1958)年に社殿を造営した物です。
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 弘法寺には、戦国時代に市河城が併設されていたと推定されており、境内には土塁っぽい物が見受けられました。
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 市河城は、康正元(1455)年の享徳の乱勃発の際、千葉実胤が拠った城ですが、鎌倉公方足利成氏(アシカガシゲウジ)麾下の簗田持助(ヤナダモチスケ)によって翌年攻略され、実胤は武蔵国へ逃れました。
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 境内北方や西方には堀切っぽい物も残っているそうです。
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 境内には国府台(コウノダイ)野砲兵連隊記念碑が建ちます。
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 明治32(1899)年、境内北方の国府台に野砲兵第16連隊が置かれたのが最初で、明治41(1908)年には野砲兵第15連隊、大正8(1919)年には野砲兵第14連隊が置かれています。国府台は皇居を見下ろせる高台にある要地だったのです。
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 昭和21(1946)年春に連合豪軍が九十九里浜に上陸するコロネット作戦を実施していたら、ここは帝都の最後の防衛線として猛烈な激戦地になっていたでしょうね。
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《続く》
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