mixiユーザー(id:250900)

2020年01月19日06:20

360 view

市川紀行16 日本福音ルーテル市川教会 / 真間の継橋

 5日日曜日は、市川関所跡から旧松戸街道の県道283号線を北上、一級河川真間(ママ)川に架かる根本橋に出ました。
 真間川は古代の真間の入江の残滓(ザンシ)です。古代に於いては、今のJR総武線の走る当たりが砂洲になっており、その北側は入江となっていたのです。そして真間の入江の北岸に下総国府があり、港が設けられて水運の拠点となっていました。なお、「真間」の名は崖線・土手の崩れ等の意味を持つ上代日本語「ママ」に由来します。
フォト

 明治時代前期になると入江は沼沢化しており、中央部の水流が真間川と呼ばれるようになって、大柏(オカシワ)川・国分(コクブ)川を合わせて江戸川に注いでいました。
フォト

 ところが、海沿いの砂洲を横切って直接東京湾に注ぐ放水路が掘削されて沼沢は消滅、流れの方向も逆になったのです。
 現在は、江戸川との分岐点が普段は水門で閉ざされているため、殆ど水流が無く、入江っぽい雰囲気になっています。
フォト

 真間川沿いに少し東へ進むと、昭和30(1955)年建築の日本福音ルーテル市川教会会堂〔登録文化財〕があります。
 https://www.google.co.jp/maps/@35.7381226,139.9057886,17z?hl=ja
フォト

 日本で多くの建築を手がけたアメリカ人ウィリアム=メレル=ヴォーリズ(1880〜1964)晩年の佳作とされ、切妻の瓦型鉄板葺屋根を持つ単廊式礼拝堂と四階建ての鐘楼から構成されているスパニッシュ様式の影響を受けた木造の教会堂です。平成24(2012)年に耐震保存修理が完了しました。
フォト

 教会から真間川に沿って更に東進すると入江橋があり、そこから弘法(グホウ)寺参道の大門通を北上すると、真間の継橋(ツギハシ)があります。
 https://www.google.co.jp/maps/@35.7381379,139.90695,18z
フォト

 真間の継橋は、南方の砂洲から下総国府へ向かうための橋で、砂洲を中継地点として真間の入江に複数の板橋が架け渡されていた事から「継橋」と総称されるようになりました。
フォト

 万葉集にも下総国府の象徴として登場し、古来、歌枕として知られた存在でした。
フォト

 江戸時代になっても継橋は健在で、元禄9(1696)年に鈴木長頼が真間万葉顕彰碑〔市川市指定文化財〕の一つを継橋の袂に建てています。
 碑は三つあり、何れも小松石で作られた高さ1mメートル程の角柱で、万葉集の古歌を顕彰した日本最古の碑になります。長頼は幕府大工頭でしたが、学識の高かった人物で、書の名手でもあったので、碑文の文字も彼の筆に成る物です。碑の左右には「住持上人日貞議 鈴長頼立碑勒銘」、背面には「元禄九丙子仲春」の文字が刻まれています。
 継橋の碑には歌そのものは刻まれていませんが、以下の歌を顕彰した物です。
 「足(ア)の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ」詠み人知らず
フォト

 安政5(1858)年に完成した歌川広重の名所絵『名所江戸百景』にも「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」があります。この画題の意味は『真間の紅葉の名所(弘法寺)から「手古那の社」と「継橋」とを望む』と言う事で、画中の遠方に継橋が描かれています。既に入江は縮小して新田開発が進み、周囲は農村地帯となっていた事が示されています。
フォト

 現在の継橋は、弘法寺の参道の途中に僅か数mの長さだけ擬宝珠つきの真っ赤な欄干がありますが、橋の下には川は流れておらず、単なるモニュメントに過ぎません。
フォト

 周囲はは住宅街です。
フォト

 継橋の傍らでは、潤南天(ウルミナンテン;Nandina domestica cv.Aurantiaca)がたわわに実を付けていました。 
フォト

 《続く》
8 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年01月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031