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2020年01月18日00:38

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市川紀行15 市川春日神社 / 市川関所跡 

 5日日曜日は市川文学ミュージアムを出た後、京成本線鬼越(オニゴエ)駅に出ました。
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 1054時発上野行普通電車に乗り込みます。
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 車両は3000系でした。
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 1101時着の国府台(コウノダイ)駅で下車します。
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 国府台駅の改札は高架線路の下にあるので圧迫感があります。
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 国府台駅から旧松戸街道の県道1号線(市川松戸線)を少し南下すると、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を祭る市川春日神社〔村社〕があります。
 https://www.google.co.jp/maps/@35.7343588,139.8999602,17z
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 当社の創建年代は不詳ですが、承応3(1654)年に再建されたとされています。
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 豊受姫命(トヨウケヒメノミコト)を祭る摂社の稲荷神社です。
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 市川春日神社の本殿は何故か櫓風の建築です。ww
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 ここには祭礼で用いられる武内宿禰山車人形(タケノウチノスクネダシニンギョウ)〔市川市指定有形民俗文化財〕があります。武内宿禰(A.D.84〜367)は人皇第12代景行天皇から第16代仁徳天皇まで5代の天皇に仕え、283歳の長寿を保った人物だとされています。
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 この人形は明治28(1895)年に製作された物で、総丈2.12m・身長1.87mもあります。人形の製作者は、幕末から明治にかけて活躍した「生き人形」の流れを汲む名工として知られた浅草在住の人形師横山朝之(ヨコヤマトモユキ)です。江戸時代から明治時代に於ける人形及び人形師は、近年美術史上でも注目され、横山朝之製作の山車人形は関東で数体しか現存していない事から、このような大型の優れた造形は非常に貴重です。
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 昭和23(1948)年までは山車に載せられて祭礼時に町内を巡行していましたが、それ以降は交通の事情等から巡行は行われなくなり、春日神社境内で組み立てられた事はあったものの、平成時代に入ってからは組み立てられる事無く保存されていました。しかし、平成27(2015)年になって久し振りに組み立てられ、翌年文化財指定を受ける事となったのです。祭礼時以外は非公開です。
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 市川春日神社と県道1号線を挟んだ場所に「市川電信電話創業の地」があります。市川町の電信は明治40(1907)年、電話は大正5(1916)年にこの地で始まったのです。
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 ここから西方の江戸川堤防に出ると、市川関所跡があります。
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 江戸川は、古代・中世には太日(オオイ)川と呼ばれ、奈良・平安時代には下総国府近くの太日河岸にに井上馬屋(イカミノウマヤ)が置かれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡船と馬の乗りかえを行っていました。また、室町時代の永正6(1509)年に東国を旅した連歌師の宗長(1448〜1532)が、紀行文『東路(アヅマジ)の都登(ツト)』の中で市川に渡しがあった事を記しています。
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 江戸開府後も江戸川には橋が架けられず、佐倉道の宿場である市川と対岸の小岩には「渡し」が設けられていましたが、船の渡し場で旅人を調べる「定船場」も設けられ、これが後に関所となりました。市川の関所では「入り鉄砲と出女」が特に厳しく取り締まられました。
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 この関所は正式には「小岩・市川関所」と呼ばれ、対岸の二村が一対で一つの関所として定められていましたが、幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐していました。関所を通り、佐倉道を往来する人々のために、市川村では2〜3艘の船を用意し、川場に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていたため「御関所附渡船之村方」とも呼ばれました。
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 明治2(1869)年に関所は廃止されましたが、明治38(1905)年に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられました。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日では不明となっています。
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 関所からは江戸川の眺望が見事でした。間近には京成本線の江戸川鉄橋があります。
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《続く》
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