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2014年10月15日23:51

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豊中市史跡巡り17 大阪大学豊中キャンパス

 9月30日火曜日は、親友の摂津職(セッツシキ)氏と共に待兼山(マチカネヤマ)にある大阪大学豊中キャンパスを訪れました。実は私は大阪大学で半年間だけ仕事をした事があるんですが、その時の勤務地は別のキャンパスFだったので、豊中キャンパスを訪れるのは初めてでした。

 待兼山は、千里丘陵の西端にある標高77.0mの山と呼ぶのも烏滸(オコ)がましい地ですが、古くは歌枕として知られた所で、『枕草子』の「山は」の項にも登場します。かつては土中で生成される褐鉄鉱の固まりである高師小僧(タカシコゾウ)の「待兼山石」を産出しました。
 待兼山を詠った古歌には以下のようなものがあります。
・「津の国の 待兼山の 呼子鳥(ヨブコドリ) 鳴けど今来(イマク)と いふ人もなし」
 『古今和歌六帖』
・「こぬ人を 待ちかね山の 呼子鳥 おなじ心に あはれとぞ聞く」
 『詞花和歌集』 肥後
・「夜をかさね 待ちかね山の 時鳥(ホトトギス) 雲井のよそに 一声ぞ聞く」
 『新古今和歌集』 周防内侍(スオウノナイシ)
・「明くるまで 待ちかね山の 時鳥 けふも聞かでや 暮れむとすらむ」
 『続後拾遺和歌集』 藤原顕綱
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 大阪大学は、天保9(1838)年に緒方洪庵(オガタコウアン;1810〜63)によって設立された適塾を直接の源流としています。適塾は佐野常民(サノツネタミ;1823〜1902)・大村益次郎(1824〜69)・大鳥圭介(1833〜1911)・橋本左内(1834〜59)・福沢諭吉(1835〜1901)・高松凌雲(タカマツリョウウン;1837〜1916)・高峰譲吉(タカミネジョウキチ;1854〜1922)等の俊才を輩出した事で知られます。
 適塾は明治元(1868)年に閉鎖されますが、翌年、中之島に設立された浪華(ナニワ)仮病院及び仮医学校に教師・塾生が移籍し、明治13(1880)年に仮病院と仮医学校は大阪府立大阪病院と大阪府立大阪医学校となりました。大阪医学校は大正4(1915)年に府立大阪医科大学へ改称され、大正8(1919)年に大学令に準拠した旧制大学たる大阪府立大阪医科大学となったのです。
 そして、昭和6(1931)年に国へ移管されると同時に、東京・京都・東北・九州・北海道・京城・台北に継ぐ第八番目の帝国大学となりました。当初の学部は医学部と理学部のみで、初代総長は長岡半太郎(1865〜1950)でした。
 続いて、昭和8(1933)年には大阪工業大学を工学部として吸収し、戦後の昭和22(1947)年に大阪大学と改称後、昭和24(1949)年に旧制大阪高等学校・旧制浪速高等学校・大阪薬学専門学校等を統合し、文学部・法経学部・理学部・医学部・工学部の五学部と一般教養部からなる新制大阪大学が発足したのです。
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 また、大阪大学は、享保9(1724)年に大坂の商人達によって設立された学問所である懐徳堂とも関係があります。懐徳堂は明治2(1869)年に閉鎖されますが、明治43(1910)年に懐徳堂記念会が設立され、最後の預人中井桐園の嫡子中井木菟麻呂(ナカイツグマロ;1855〜1943)等の尽力で、大正5(1916)年の重建懐徳堂の設立により再興を果たしました。そして、昭和24(1949)年に懐徳堂記念会が懐徳堂蔵書を大阪大学に寄贈した事で両者の繋がりが出来たのです。現在、財団法人懐徳堂記念会事務局は大阪大学文学部内にあり、大阪大学が初期の懐徳堂に関する物も含めて管理しています。しかし、懐徳堂と重建懐徳堂との間には半世紀近い空白があり、教育機関としての歴史的連続性が無いため、懐徳堂は大阪大学の学問的系譜とは言えても、大学の前身と言うのは苦しいですね。
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 その後、昭和28(1953)年に法経学部を法学部と経済学部に分離し、昭和30(1955)年に薬学部、昭和35(1960)年に歯学部、昭和36(1961)年に基礎工学部、昭和42(1967)年に医療技術短期大学部を新設、昭和47(1972)年に文学部から人間科学部を分離しています。
 なお、戦後、発祥地ではあるものの手狭な中之島キャンパスから、千里丘陵の吹田(スイタ)・豊中両キャンパスへの移転が進められ、平成5(1993)年の医学部附属病院の移転で、吹田・豊中両キャンパスへの統合が完了しました。翌年には教養部が廃止されています。
 さらに、平成16(2004)年に国立大学法人法の規定により国立大学法人大阪大学となり、平成19(2007)年には大阪外国語大学と統合して外国語学部を設置、箕面(ミノオ)キャンパスが生まれました。大学本部は吹田キャンパスに置かれています。
 豊中キャンパスの歴史は、待兼山の大阪医科大学予科校舎に始まります。同予科は大阪帝国大学の発足に伴って昭和6(1931)年に廃止される事になりますが、大正15(1926)年に設立された大阪府立浪速高等学校が近隣に校舎を持っており、同予科と共に現在のキャンパスの土台となっています。
 現在は、文学部・法学部・経済学部・理学部・基礎工学部、及び全学共通教育を担当する大学教育実践センターとその講義棟が置かれており、学部の新入生は一定期間豊中キャンパスに通う事になっています。敷地面積は445,851.08m²に及びます。
 さて、豊中キャンパスの西端、一番石橋駅に近い位置に大阪大学総合学術博物館〔登録文化財〕があります。
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 元々、この建物は、昭和7(1932)年に浪速高等学校予科跡地へ建てられた大阪帝国大学医学部附属医院石橋分院で、分院が昭和43(1968)年に廃止された後、医療技術短期大学部本館を経て、待兼山修学館と呼ばれて現在に至っています。
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 総合博物館は入館無料で、開館時間は1030〜1700時ですが、日曜・祝日が休館日ですから御注意下さい。内部は入口以外撮影禁止ですので、写真はHPから拝借して来ました。
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 先ずは一階です。
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 【コンピュータの黎明期】コーナーです。
 大阪大学は大東亜戦争の後、真空管式の電子計算機の開発に取り組みました。数学を専門としていた大阪大学工学部の城憲三(1904〜82)は計算機の重要性を早くから認識し、その研究を行っていましたが、大戦中にアメリカで開発された電子計算機ENIACの情報が公開されると、すぐさま電子計算機の研究に着手しました。このコーナーでは、様々な機械式計算機と共に、昭和25(1950)年に城が試作したENIAC型10進演算装置、1950年代に本格的に開発に取り組んだ大阪大学真空管計算機を展示しています。 
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 【世界にはばたく研究者】コーナーです。
 大阪帝国大学には、日本の科学の中心を担う新進気鋭の研究者が集まり、自由な研究環境のもと、数々のユニークな研究が行われました。土星型原子模型で知られる初代総長長岡半太郎以下、中間子論を発表してノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(1907〜81)・八木アンテナで知られる通信工学の八木秀次(ヤギヒデツグ;1886〜1976)・サイクロトロンの建設に尽力した原子核物理学の菊池正士(1902〜74)・漆の分析を行い日本の有機化学研究を牽引した真島利行(1874〜1962)等の業績を紹介しています。
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 次は二階です。
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 【みる科学】コーナーです。
 懐徳堂で学んだ中井履軒(1732〜1817)が、顕微鏡による観察記『顕微鏡記』を著した頃の顕微鏡や、大阪帝国大学の菅田栄治(1908〜88)が制作した国産初の電子顕微鏡等を展示、また、最新の電子顕微鏡やX線構造解析法を用いたタンパク質構造解析や病原微生物の研究成果も紹介しています。
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 【大阪大学の系譜】コーナーです。
 上述した様な大阪大学の歴史が紹介されています。
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 そして、三階は【待兼山に学ぶ】コーナーで、待兼山に関する展示が行われています。
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 キャンパス建設で破却された待兼山5号墳出土の埴輪です。
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 待兼山に棲息する昆虫の標本です。
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 さて、いよいよ当博物館の白眉たる待兼鰐(マチカネワニ)化石〔登録天然記念物〕の登場です。
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 昭和39(1964)年に理学部校舎建設工事現場で発見された全長7mの巨大な鰐の化石で、約40万年前の更新世リス間氷期の頃の物だと推定されています。
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 これは日本で初めての確実な鰐化石の発見であり、ほぼ全身の骨格が発見された稀有な例です。下顎の前部は切断され、脛骨と腓骨は骨し、鱗板骨には嚙まれた痕跡が残されており、これらの病理的特徴は外的な要因と考えられます。即ち、同種内での縄張り争いや繁殖期に於ける雌の争奪の際に負った傷である可能性があるのです。各痕跡は治癒した跡があり、怪我を負った後も暫く生存していた事も判明しています。
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 この鰐は、亀井節夫と松本英二によりクロコダイル科トミストマ亜科マレーガビアル属に分類され、出土地に因(チナ)んで、昭和40(1965)年に和名はマチカネワニ、学名はTomistoma machikanense(トミストマ・マチカネンセ)と命名されました。ガビアルは顎が長いのが特徴で、当時は以下のような姿が想像されていました。
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 ところが、その後、青木良輔により再研究され、昭和58(1983)年にマレーガビアル属ではなくクロコダイル科クロコダイル亜科の新属のワニであることが示唆され、古事記に登場しワニに化したと伝えられる豊玉姫にちなんだ属名を冠した学名Toyotamaphimeia machikanensis(トヨタマヒメイア・マチカネンシス)と命名されたのです。この説に基づく想像復元図は以下の様な感じになります。
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 しかるに、平成18(2008)年に至って、やはりトミストマ亜科に分類されるとの定説が確立、現存の鰐の中では、マレーガビアル属が一番近縁である事が再確認されたのです。
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 最後に四階は【自然教室】と屋上展望台です。
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 自然教室では「阪大キャンパスに咲く花」をコンピュータで検索する事が出来ます。屋上からの眺望は木が繁茂しているせいでイマイチでした。
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 一階に降りてミュージアムショップで「阪大瓦せんべい」を買いました。
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 待兼鰐の「ワニ博士」も描かれています。
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 待兼鰐は阪大のシンボルになっており、クリアファイルにも載っています。それにしても、実に愛想の無いクリアファイルです。如何にも阪大らしいとも言えますが…。
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 博物館を出た後は、阪大坂(ハンダイザカ)を登ってキャンパス中心部へ進みました。
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 キャンパス北方の待兼山丘陵北縁の尾根には、かつて4世紀の前方後円墳たる待兼山古墳が存在し、出土品は国の重要美術品に指定されていますが、古墳は削平されて宅地となってしまいました。 
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 坂を上り切ると、大阪大学会館〔登録文化財〕が見えて来ます。
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 この建物は、浪速高等学校の高等科本館として昭和4(1929)年に竣工したもので、ネオゴシック様式を持った学内最古の建物です。新制大学として浪速高等学校が大阪大学に吸収されると、教養部本館、共通教育本館(イ号館)を経て、平成23(2011)にリニューアルされ、現在に至っています。
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 理学部前には待兼鰐出土地のプレートがあります。
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 最初に化石の断片を発見したのは、化石採集を趣味とする二人の高校生でした。
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 待兼鰐は豊中市のシンボルにもなっており、マンホールの蓋にも描かれています。
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 この後、正門からキャンパスを出て、中国自動車道・大阪モノレール南側の刀根山元町方面へ向かいました。
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《続く》
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