mixiユーザー(id:2502883)

2019年12月13日09:20

462 view

王朝の簒奪、国号の変更 王莽、李淵、武則天

 中国は王朝の統一と分裂を繰り返しながら、近現代を迎えているわけだけれど、年表的には国号が変更して、あたかも違う国家に生まれ変わったように見えて、その実、政体としてはほとんど連続していることも多い。

 たとえば、前漢と後漢の間には、新という王朝が興った。これは皇帝の外戚にあたる王莽が、前漢の皇帝を傀儡としたのち、禅譲を受けたことにして、帝位を簒奪し、生まれたものである。
 ただこれは、帝位が世襲ではなく、臣下によって交代したものに過ぎず、全く新しい国家が生まれたことを意味しない。王朝としての実態はそのままに、トップが入れ替わったというのが実態だといえる。
 後世における王莽の評価は、決して芳しいものではない。これは帝位の簒奪と、その帝位がわずか十五年ほどで奪い返されたからということもあるだろう。王莽の治世については、暴政という見方が一般的である一方で、儒教的な要素を国政に取り込むなど、のちの王朝にも引き継がれたところも多く、近年ではそうした点を再評価されてもいるようだ。

 同じように、禅譲を経て王朝が替わるのは、その後の後漢から魏にも当てはまる。『三国志』に親しんだ私たちからすると、劉備が率いる蜀漢こそが後漢の後継とイメージしがちであるけれど、後漢の最末期に王朝を支えたのは紛れもなく魏の群臣たちであった。その魏もまた、禅譲を経て晋(西晋)へと国号が替わる。劉氏(後漢)→曹氏(魏)→司馬氏(晋)の、世襲に拠らないトップの交代が続いたわけだ。

 隋から唐の交代は、前漢から新の政権交代と同じであるところが興味深い。王莽が外戚の一族であったように、唐の初代皇帝になる李淵もまた、同様であったからだ。王莽と同じく李淵も功績を重ねていき、高句麗遠征の失敗によって動揺した隋王朝に反旗を翻し、新たな皇帝を擁立して傀儡とし、間もなく禅譲を迫って帝位に就いた。
 王莽と異なるのは、その後、周辺に割拠する群雄を滅ぼし、王朝が300年近く続いたことである。このことからも、王莽の低評価は、必ずしもその「暴政」にあるのではなく、王朝が長続きしなかったことに求められよう。

 中国史を王朝の交代劇としてみるのではなく、制度史的な観点で捉えてみると、そこには確かな連続性がある。もっとも、昨日も触れたいわゆる「均田制」の例からも、制度が固定的に運用されていたわけではなく、その時代の状況に応じて取捨選択が繰り返されていった。

 その唐も、途中で皇帝の后にあたる武則天(則天武后)が女帝として国号を周(武周)に改めている。これも後世からは簒奪だとして、武則天の評価は高くない。
 けれども、その治世において、特に人材の登用に成功を収め、それが武則天亡きあと、復活する唐の最盛期を築く礎になったとされる。武則天も、王莽とは異なって、帝位を退いたのちもその生涯を全うできた。
1 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する