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2019年11月20日21:57

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政治的安定期としての桂園時代

 安倍首相とその政権の評価については、後世の歴史家による判断を待たなければならないにしても、それまで通算在任日数一位だった桂太郎の事績については、すでに多くのすぐれた研究、評伝が出ている。

 明治の元勲が第一線を退いて誕生したのが、1901(明治34)年に発足した桂内閣(第一次)であった。閣僚の顔ぶれを見ても、伊藤博文や山県有朋らの名前はもちろんなく、当時は「二流内閣」と捉える向きもあった。ただ、近代日本政治史を少しかじっていると、のちの大正、昭和初期において政界に影響力を与えるメンツが揃っていて興味深い。桂内閣の発足は、「建国の父」たちから実務官僚たちの時代に移る転換点だったということもできる。

 桂太郎は、これを含めて三度の組閣を行う。第三次内閣は、1912(大正元)年で政変により二か月で倒れてしまう。これは大正政変といって、政党とメディア、世論がこれに大きく関わっていた。
 またこの間には、西園寺公望が二度の組閣を行っており、桂と併せて「桂園時代」と呼ばれている。両内閣は、政策や政治的なスタンスについてそれほど大きな違いもなく、桂園時代末期を除けば、政権交代も譲り合いという性格が強かった。
 つまり、桂太郎が政権にかかわっていた時期は、西園寺内閣も含めると12年近くになる。これほど政治が安定していた期間は、戦後も含めて極めて稀というべきだろう。

 ただ、桂園時代の開始と終焉では、政治を取り巻く環境は大きく様変わりしていた。第一次桂内閣は、日露戦争の時期とも重なる。伊藤博文や山県有朋は、第一線から退いたとはいえ、政党・官僚・軍に強い影響力を行使し続けており、桂内閣もまた、そのなかで政権運営を行っていた。
 しかし第三次桂内閣は、上述したように短命だったけれども、このとき伊藤はすでに亡く、陸軍出身の桂も山県とは微妙な関係となっていた。一般的には、官僚系の桂が民権派によって倒されたように捉えられているけれども、このとき、桂もまた政党設立に強い意欲をみせていた。政党政治の胎動を、ここに見ることもできよう。

 政治というのは、安定と混乱が常に背中合わせの関係にある。長期政権も、その末期に基盤が急速に瓦解することもある。未だに連続した政権として歴代最長の佐藤栄作内閣もまた、そのような経過をたどった。意中の福田赳夫に首相の座を譲ろうとするも、佐藤派から田中角栄が新たに派閥を作り、首相になった。

 安倍政権の「安定」も、あるいは混乱の予兆がすでに現れているのかもしれない。しかし何がそのシグナルなのかは、同時代の私たちにはまだ分からない。これも歴史家の仕事となる。

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■安倍首相「桂太郎を超えるとは…」
(時事通信社 - 11月20日 20:02)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=5872000
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