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2019年03月24日18:31

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内藤一成『三条実美』(中公新書、2019年)を読む

 幕末・維新に活躍した政治家のなかで評価の難しい人物の一人に、三条実美がいる。幕末は尊攘派の急先鋒として頭角を現し、幕府や公武合体派を翻弄させるものの、八月十八日の政変で京を追われ、逼塞を余儀なくされる。維新を経て明治政府の首班に推戴され、内閣制に移行するまで太政大臣の位置にあった。
 幕末にあっては、過激な攘夷公家の筆頭というイメージがつきまとう一方、維新後は活躍らしい活躍をしたわけでもない。同じ公家出身の岩倉具視とは対照的であり、岩倉の操り人形、地位が高いだけの傀儡と理解されることもある。
 それを象徴する出来事が、いわゆる征韓論争で明治政府が分裂した明治六年の政変である。西郷隆盛を朝鮮使節に派遣する議案を巡って、ギリギリの駆け引きが行われていたそのとき、過度のストレスで倒れ、これを機に使節の派遣中止が決定された。西郷はこれによって政府を去ることになるが、そうした重大な局面で倒れた三条に、軟弱、優柔不断というイメージがつくのは、無理もない。

 しかし、それならなおのこと、三条実美の評価は難しくなる。仮に尊攘派として活躍した幕末も、過激志士たちに載せられた御輿に過ぎないとして、ひと癖もふた癖もある明治政府の政治家たちのトップを長く勤められるものだろうか。それが単なる傀儡というのなら、三条以外でもよかったはずである。
 こうした私の疑問は、昨年読んだ刑部芳則『公家たちの幕末維新』(中公新書、2018年)※を読んだときにも抱いたものだった。明治初期、公家出身の政治家たちは他にも多く、政府の枢要な地位にあったものの、間もなくそのほとんどが閑職に追いやられる。それで残ったのが岩倉具視と三条実美なのである。
 個性派ぞろいの明治政府にあって、長く太政大臣(1871〜1885年)にあったことは、逆に三条以外にその任が務まらなかった証拠なのではないか。しかしもちろん、大久保利通や岩倉といった、政略家として期待されていたわけではなかっただろう。そうであるとすれば、三条に求められた資質とは何だったのか。

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 内藤一成『三条実美』(中公新書、2019年)を読む。文字通り、三条実美の評伝として描かれたものである。実父・三条実萬(さねつむ)の政局への関与、朝廷への権勢を高める役割を果たした一方、安政の大獄に連座して謹慎させられたことも含め、三条実美の政治意識がどのように形成されたのかも明らかにしている。

 上述した『公家たちの幕末維新』でも触れられていたように、幕末における尊攘派公家の「過激化」には、多分に時代の空気、志士たちからの(テロ行為も含めた)突き上げがあった。三条もそれと無関係ではいられなかったけれども、久留米の真木和泉らとの交流から、空疎な攘夷論には疑問を抱いていたことは注目される。また、過激な攘夷論の渦中にあって、心身ともに蝕まれていたという事実も、三条を考える上で無視できない。
 その三条は、薩摩藩の巻き返しによって、京を追われ、長州、そして大宰府へと落ち延びる(八月十八日の政変、七卿落ち)。以後、三年余りの逼塞を余儀なくされるものの、大宰府では長州藩、薩摩藩の志士との交流があり、のちの薩長同盟へとつながる空気が作られていったという。幕末の政局にあって、身辺にも身の危険が及ぶなかでも毅然として振舞い、志士たちとの交流を経て、自らのあり方を模索していたのかもしれない。

 幕末の最後三年間、表立った活躍をしていなかった人物が、明治政府に高位高官として迎えられた背景には、三条家という高い家柄であったこと、尊攘派公家という経歴もさることながら、大宰府にあってもその存在感を示していたことも無関係ではあるまい。同じく岩倉具視も、五年もの間、京の郊外で蟄居生活にあった。

 そして維新後、三条が政権のトップに就くことになるのも、ひとつは近世から近代への移行期にあって、家柄が重要であった。これはたとえばフランス革命においても、初期の指導者が貴族階級だったことも併せて考えると理解しやすい。維新初期は、旧大名、公家なども未だ影響力を保持していたから、それに対抗できる家格は必要だったといえる。
 もうひとつは、そのような華族(旧大名、公家)や志士あがりの政治家、官僚たちの意見や行動を調整できる能力が求められた。三条は家格に加え、そのような調整能力に秀でた政治家だったからこそ、明治政府で長く重用されたといえる。自らもまた、そうした振る舞いに自覚的だったのではないか。幕末に尊攘派公家として活躍していた頃の姿が、維新後に全くみられなくなるのは、一般的に言われているような、時代に取り残されたからという理由からではなく、政権トップとしてのあり方を意識していたからとも考えられる。

 こうした調整型の政治家に対する評価は、ときに優柔不断というネガティブなものととられやすい。明治六年の政変は、そうした姿勢の悪い面が現れたというべきだろう。しかし三条の立場からすれば、自分の意見が通らないからとすぐに辞めたがる政治家たち(西郷隆盛や板垣退助らだけでなく、木戸孝允や大久保利通も)に対して、自分は首班として辞めることもできず、政府分裂を回避するためにギリギリの周旋を行わざるを得ない。この心労を理解せずに軟弱だ、優柔不断だとするのは、確かに酷であろう。
 また、明治八年に同じく島津久光、板垣を更迭した際には、先の反省を生かして毅然とした態度で危機を克服している。常に分裂の危機にあった明治政府において発揮されたその調整能力は、むしろ高く評価されていい。

 他方で、内閣制に移行する過程において、太政官制が政策形成にそぐわなくなっていたこと、明治天皇が近代君主として成長したことによって、太政大臣としての調整が次第に必要なくなってきたことも、明らかとなっていった。三条はなおも、内閣制は首相に権限が集中してしまうことから、薩長の分裂も危惧されると、当初は懸念を示していたものの、その効用を理解すると、伊藤博文をサポートしてその実現に尽力する。
 そして自らは内大臣として、政権の表舞台から去る。ただし、このときの内大臣は、太政大臣の権能から、表向きの政権首班を省く一方、宮中の秩序を維持、監督する役割を帯びていた。これも単なる閑職ではなく、三条の能力が買われたからこそのポストだったと言えよう。

 この本の副題は、「維新政権の「有徳の為政者」」である。これは伊藤博文が「知の政治家」として明治政府を率いる舞台を用意した三条を端的に表現したものである。「徳の政治」というと、アジア的、前近代的な印象を受ける。ただ、幕藩体制から近代国家へと脱皮するなかで、過渡期というものはどうしても必要であった。そのときに求められるのは、不安定な秩序のなかでも、人びとを納得させられるだけの人柄、能力、家格を兼ね備えた指導者だろう。
 三条は、近代政治家としては大久保、伊藤に確かに及ばなかったけれども、大久保や伊藤にしても、三条の後ろ盾がなければ、近代日本の建設を抵抗なく進められなかった。そして三条の表舞台からの退出は、もはやその後ろ盾を必要としない時代の到来を告げるものであった。明治国家の完成を支え続けた功労者として、三条実美を再評価する本が出てきたことは、近代日本史を考える上でも非常に有益である。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2019/02/102528.html
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