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2019年01月17日11:42

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美川圭『公卿会議』(中公新書、2018年)を読む

 私たちのイメージする公家、貴族は、質実剛健な武家、武士のそれと対照的で、毎日のように和歌を詠み、蹴鞠などして遊んで暮らしていたと捉えがちである。これは私たちがドラマや小説など、「武士の物語」に馴染んできたからなのだけれど、その原型は平安時代に花開いた宮廷文学、『源氏物語』や『枕草子』があったからかもしれない。
 ただ、『源氏物語』はフィクションであり、私たちがテレビで目にするドラマの医師や弁護士が、現実離れした煌びやかな暮らしをしているのと同様、「そんなわけないだろうが」という視点を持っておかないといけない。また随筆も、宮廷の華やかさを描いているのであり、両者とも女房たちの目線であったことも留意しなければならない。
 では、宮廷社会に暮らす貴族たちは、実際にどういう役割を担っていたのか。当時の貴族たちの日記や史料をもとに、平安時代から室町時代初期にかけての姿を描いたのが、美川圭『公卿会議』(中公新書、2018年)である。

 結論からいえば、少なくとも平安時代の貴族たちは働き者であったということである。平安時代は、律令制の時期、摂関政治の時期、院政の時期、武家台頭の時期に分けることもできるけれど、そのいずれも、政治の中枢に貴族たちの姿があった。政治体制の変化は確かにあったものの、貴族はその変化に適応しながら、職務を執行していたのである。

 具体的には、実務官僚が案件をまとめ、報告するなかで、それが重要なものであれば、上級貴族である公卿が決定を下すプロセスが基本であった。公卿たちが合議のもと、裁可を下していたのである。
 もっとも、律令制は高いコストがかかる。そのため、会議の簡素化、形骸化も起きた。それに代わって、陣定(じんのさだめ)という「閣議」が開かれるようになっていく。合議から政務の分担が広がっていくなかでも、人事など重要案件は公卿会議によって議論された。これが摂関政治の時期と重なる。
 興味深いのは、摂政関白は陣定に出席しないのが慣例だった。摂関政治は、何も摂政や関白が無条件に権威を振るえたわけではなく、天皇との関係、貴族たちの支持も必要だった。摂関政治の絶頂期と目される藤原道長は、内覧という、摂関の根幹にかかわる権限は認められていたものの、長い間、左大臣として陣定に出席していた。左大臣は名誉職的な太政大臣とは異なり、太政官における最高位の官職である。
 この時代は、公卿のなかにも実務に長けた貴族が多かったから、道長は彼らと協調しつつ、天皇との関係も調整を図っていったと思われる。そういう意味では、摂関政治といっても、公卿会議の意味や役割は重要だったといえよう。

 院政の時期も、後三条天皇や白河天皇の即位とともに直ちに生まれたわけではない。いわゆる摂関の地位が道長の子孫たちによる世襲になる過程において、摂関家の地位が弱体化したわけではない。むしろ、次期天皇の地位をめぐって、摂関家は天皇や上皇と連携することによって、存在感を維持していた。
 しかし、摂関家内部で氏長者の地位などをめぐって対立も起き、イニチアチブを握ることができなかった。白河天皇(上皇)は、そのなかで自らの地位を強化していき、長い時間をかけて院政を確立していった。その権力の源泉は次期天皇への指名権であり、人事権であった。この権能は、本来、白河上皇個人に由来するものだったかもしれない。しかし、天皇家の家長(治天の君)も、その死後に継承されていった。それと同時に、治天の君(院)の専制を支える官僚層も形成されていく。これが院の近臣と呼ばれる側近たちだった。

 天皇は太政官がこれを支え、上皇・法皇は院近臣による専制を行う。こうした院政の理解も、修正されつつある。というのも、天皇親政も院政も、天皇や上皇が天皇家の家長(治天の君)であれば、時代が下るにつれて統治のあり方に違いがなくなっていくからである。それを担保し続けたのも、公卿会議だった。

 この本では、平安時代だけでなく、鎌倉時代の公卿会議の姿にも触れていて、興味深い。一般に鎌倉時代の政治史は幕府と御家人の行動として片づけられがちだけれども、承久の乱以前はもちろん、それ以降においても、政治改革を伴いながら、公卿会議は行われ続けたからである。
 承久の乱後、京都政界でのキーマンとなる西園寺公経、そして九条道家についても詳しく触れられており、鎌倉時代中期の宮廷政治史にもなっている。九条道家の政権から、後嵯峨院政へと移るなかで、所領管理などの政務を扱う記録所の役割が大きくなっていく。しかし、両統迭立で朝廷内における幕府の干渉(次期天皇の選定など)が強まるなかで、後醍醐天皇の倒幕運動が展開されるようになる。
 後醍醐天皇の「親政」は、上で触れたように院政の否定ではなく、治天の君として人事権や軍事力を行使する、本来のかたちに戻ろうという運動と捉えることができる。しかし、全国政権として統治を行うのに、その基盤は十分でなかった。南北朝時代の到来とともに、貴族たちも分裂していき、行政機構の維持は室町幕府に委ねられていくことになる。これによって公卿会議は消失していったとする。


 この本では、平安時代から鎌倉時代にかけての貴族たちが、高い行政能力を持っていたことを示している。当たり前だけれど、遊び暮らしていたわけではない。
 そして摂関政治、院政、武家政権と時代が変わっても、その機構のなかで公卿たちは会議を通じて政治に関与し続けたのである。

 院政期には在宅諮問といって、公卿会議を行わず、院の意向を個別に聞くというかたちが広がったこともある。これは室町時代中期に将軍と有力守護たちの間でもあったことだけれど、これは院や将軍の意向を各個撃破で承認させていこうとするもので、専制的になりやすい。
 しかし、公卿会議はその後も続いた。承久の乱ののち、朝廷の権力が弱体化したのちは、逆に公卿の合議が朝廷の権能を支える役割も果たしていく。貴族たちは、時に利害を異にし、身内でも対立することも少なくなかった。また天皇や院の権力にも対峙しなければならないこともあった。
 そういうなかでも、貴族たちの合議が朝廷の意思決定に正統性を与えていったことは、注目されていい。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/10/102510.html
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