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2020年03月29日17:50

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親友という言葉を使える友達は一人か二人です

■友達に裏切られた経験者は4割超え 「貸した金をまったく返してくれず…」
(しらべぇ - 03月28日 19:41)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=202&from=diary&id=6026077

早川健「俺の親友、飛鳥五郎という男を殺したのは貴様だな!」
星飛雄馬「親友の伴に、感謝しています!」伴宙太「ほぉぉしぃぃっ!なんじゃい水くさいっ!」
シュウ「私はレイの親友、仁星のシュウ!」


幼少期から断続的/反復して親しんでいるコンテンツには 仲の良い、協力的な…悪く云えば都合の良い協力者・お友達が「親友」という甘美な言葉で装飾されて描かれ続けてきました。

私も「親友」という言葉に憧れましたし「使われた」こともありますが その人間関係の殆どは崩壊していますよ(笑

小学校高学年。
私は第二次ウルトラブーム〜第三次ウルトラブームの時流の中で、ポピー(現・バンダイボーイズトイ事業部)の発信していた怪獣ソフビ「キングザウルス」シリーズがお気に入り。遊びの主流は「怪獣ソフビを用いての怪獣ごっこ」のようなもの。成熟度に差異がある、小学校高学年で「そんなこと」をしていれば、成熟度の高い友人からは「幼稚だ」と唾棄されても仕方が無い。
だからそれまで「仲良し/親友」だったと思っていた友人から疎んじられ始めていました。
象徴的だった出来事は
友人に電話をしたときに先方の親御さんが電話口に出られて、私からの電話を取り次ごうとしたところ 〜当時は「保留ボタン」のない電話も珍しくありませんでした〜 電話の向こうから「面倒だから"いない”って云っといてよ!」の声が響いてきました。
私は親御さんの嘘を素直に聞き入れてから、当該友人がいつも遊んでいる場所(友人宅に隣接している広場)を自転車でこれ見よがしに走りましたが友人は知ってか知らずか私には一瞥もくれませんでした。

中学校1年生。1980年3月。
3学期の終わり頃だったと記憶しています。
【小】学校6年生のときの友人が(私も含めて)集まって なにか画策していました。何を画策していたのか忘れましたがおそらく「小学校時代の担任のところに遊びに行こう」的な話だったのでは、と思っています。
「一度帰宅し、再集合な」
みたいになり、どちらかというと「おとなしい」立ち位置だった私には「カイザーの所には迎えに行くから」との指示(?)があり、自宅待機していました。
けれども約束の時間を経過しても誰からも迎えが来ない。メンバーの自宅に電話をしても誰も出ない/いない。
怪訝に思って大通りに出たところで私の鼻先をメンバーの一人である「K」の駆る自転車が駆け抜けていきました。
私の存在など無いかのように。
その日は近所の模型店に入荷したばかりのガンプラ「1/144ジオング」を購入して 自宅でコトコト組み立てました。
後日談。「K」は37歳で夭逝しました。

大学2年生。1987年4月〜5月(笑
私は当時、ご贔屓にしていた(女性)声優のファンクラブで編集【部長】をしていました。
当該声優は結婚を理由に1987年3月31日を以て引退。
直後にやってきた「春の大型連休」に結婚式・披露宴をあげることになっていました。
所詮はファンであり、友人でも近親者でもないわけですからいずれにも参列できないことになっていました。
「式場だか教会だかの外周から見守ろう」みたいな話になり、私に近い(協力的な・年下の)会員たちと動き回っていました。
そして編集【副部長】をしていた「Y」に連絡。場所や時間帯の情報を熱心に伝えました。
数次の遣り取りの後「Y」の口から思いも寄らぬ情報が…
「すみません、会長も企画部長も…一部のファンクラブ関係者は披露宴に参列することになっています。ボクも参列します。でも会長から"ヒラツカイザーは参列させないから、情報は流すな”って言われていたんです」
20歳の若さで組織の派閥争いに敗れる構図にプロットされていたんですね。
その後ファンクラブが発行した最後の機関誌(編集部長なのに私はタッチしていませんでした)には全会員の名前が掲載されていました。
会員番号はアルファベット3文字と、3桁の数字から構成されていたのですが 私の会員番号からは「部長/幹部」を意味するアルファベット9番目の「I(Importantの意)」が剥奪され、ワンランク下の「副部長」を意味する「M(Mainの意)」が付与されていました。
これには後日談がありまして1997年11月にファンクラブの同窓会がありました。声優も来ました。
会場にはバースデーケーキがあってプレートには
「編集部長 お誕生日おめでとう」
の文字が…
《自分たちが10年前、何をやらかしたのか忘れているのか》
噴飯物で 池袋の夜を過ごしました。
参加したのは「参加しないと何を言われるか分からない」との警戒心が働いたから、だったのかも知れません。
もう件の声優に対するリスペクトなど皆無でしたからね。

同じく大学2年生。1987年11月。
「必修ゼミをどうするか」

学友と相談し合うことになりました。
当時は携帯電話がない時代。
「学食でとにかく落ち合おう。互いが動き回るとすれ違ったり迷子になるから俺は動かずに待っているから、ちゃんと見つけてね。それじゃ、土曜の午後2時過ぎに学食で」

待てど暮らせど「迎えは来ない」。
「待ち合せを間違えたか」と思って学食2階でアイスクリームを食べようとした私の視界には二人の学友が額をつきあわせるように「ゼミ選び」の相談をしていました。
長い机が並べられて複数の島が出来ている学食のテーブル席。
私はこれ見よがしに学友の一人と背中合わせに(もう一人の学友の視界に入るように)座ってアイスクリームを食べましたが、二人のいずれからも声はかかりませんでした。

そんなわけで
「おともだち」はそこそこいますが 胸襟を開いて語り合える人間というのはひとりや二人くらいではないかな、と思っています。

裏切りと「ハブる」のは少々違うのかも知れませんが、結構情けない扱いを受けてきました。
それだけに「背中を預けることの出来る友人/まずいときには諫めてくれる友人」と思えそうな友人は大切にしています。

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