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2020年05月25日20:57

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三夕の和歌

  ,気咾靴気呂修凌Г箸靴發覆りけり真木立つ山の秋の夕暮れ 
                               寂蓮

◆ /瓦覆身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 
                               西行

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 
                               定家


新古今和歌集に抜選されている“三夕の和歌”は 言わずと知れた“秋の夕暮れ”を詠った名歌であると同時に、日本人なら誰もがこころに思い浮かべることができる心象風景を言葉(ことのは)で描いた絵画的傑作であるともいえよう。
所謂「もののあはれ」、「わび・さび」といった日本古来からの美的観念を外国人に説明するときにもよく例に挙げられる和歌でもある。

ここに詠われるのは“秋の夕暮れ”と言っても紅色(くれないいろ)に染まる夕焼け空ではなく、寧ろ色彩の持つ高揚感を極力抑えたモノトーンに近い寂寥と黄昏の世界である。

,亮簣,硫里蓮丁度の定家の歌と技巧的に対をなす形となっているのも面白い。
上の句で、秋の夕暮れの寂しさは花や紅葉の色彩が色褪せ失われてしまう事では必ずしもない、と詠んでいる。ここで鑑賞者は否応なしに寂蓮のモノトーンの世界に引き込まれる。
そして、秋の夕暮れは色彩の無い真木(檜、杉、樅などの常緑針葉樹=紅葉せず落葉しない)立つ山の夕暮れ(モノトーンの世界)にこそ一層寂しさと寂寥感(もののあはれ)が感じられるものだと結んでいる。

△寮捷圓硫里蓮△錣兇筏ぜ茲辰椴磴┐襪覆蕕丱皀佑筌拭璽福爾琉象派の絵画の世界であろう。しかし上の句で敢えて“心なき身にもあはれは知られけり”と詠むことによって、
夕暮れの寂寥の虚無と諦念を超えて、諸行無常、寂滅為楽の美意識の悟りへと昇華させている。

の定家の歌は一段技巧的で、“花も紅葉もなかりけり”と上の句で敢えて否定することによって、返って鑑賞者の瞼の裏に花と紅葉の色彩がありありと想起させられ、
誰もいない浦の苫屋のモノトーンとのコントラストを際立たせ呼応させることにより、
より寂寥感ともののあはれを一層感慨深く感じさせる事に成功している。
因みにこの老境の域に達したような名歌は、藤原定家 25歳の作品である。

日本ではやはり三という数字がなにかと縁起が良いものだが、もし四夕の和歌であるならば私は次の歌を追加したい。この歌はやはりあくまでもモノトーンの世界でありながらも、大自然の様相の移り変わりの雄大さと穏やかな自然の静けさと息づかいさえ感じられる寂蓮法師一流の美意識の真骨頂である。

   村雨の露もまだ干ぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ 
                              寂蓮


そして私にも懲りもせずおこがましくも三夕の和歌を真似てみたのがある。
下記の拙歌は、「もののあはれ」、「わび・さび」というよりは、寧ろどこにでもある民家の晩秋の小庭の木漏れ日の陽だまりの温もりが日の入りとともに静穏に冷えていくような、
私がまだ小学校にあがる前の幼い頃、ものごころがついたかつかぬかの(五感が入り混じっていて未分化の)頃の源風景であり思い出の映像である。

   南天に残れる木漏れ日消えにけり古屋の小庭の秋の夕暮れ

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