或る悩みの話を聴いていて、
その人は他者に引っ張られまくって、
常に動揺しているのだなと感じた。
その人が悩まされている対象の人は、
恐らく気分屋だ。機嫌と不機嫌の波が大きい。
その人は自身の繊細さ故、その気分屋の波を、
全部自身に結び付けて考えてしまう。
自分が不機嫌にさせてしまったのではないか、と。
自ら気分屋に支配された時間に飛び込んで行っている。
そして気分屋は恐らくその人の事をあまり、もしくは全然、気にかけていない。
気分屋には気分屋の事情と問題があって、
不機嫌が表出したり隠れたりしているだけだ。
脳内に、「ゲシュタルトの祈り」が浮かぶ。
「私はあなたの期待に応える為に生きているのでは無く、
あなたも私の期待に応える為に生きているのでは無い。
私は私、あなたはあなた。
あなたと出会えた事は素晴らしいし、
出会えなかったとしても、それもまた素晴らしい事だ(仕方の無い事だ)」
でも「ゲシュタルトの祈り」って、「祈り」なんである。
「それが出来ればネ・・・」という事なのかも知れない。
他者に囚われない事、他者に求めない事、
意外に難しい事なのかも知れない。
特に悩んでいた、その人にとっては。
ペガサスの様に、
他者に囚われる事なくポーンと羽ばたいて自然にしているタイプもきっとおり、
そのペガサスに振り回されてしまうタイプもまたいるのであろう。
でもペガサスはペガサスの原理で動いているだけで、
誰かを振り回しているつもりは無い。
ペガサスに振り回されちゃってる人って、
「ペガサスの考えを全部掌握して自分を嫌わない様にコントロールしたい」
という、ペガサスには関係ない目標を密かに立て、
一人日々その目標に向かって山登りして、
到達不可能な山頂を目指す疲労で倒れそうになっているのではないか。
ペガサスの考えを全部掌握なんて出来っこ無いのにガチに取り組み、
止まらない思考は、次第に妄想を形成して行く。
その妄想は、ペガサスの実状とはかけ離れた、
しかしペガサスに対して向けられたものであり、
然もたちの悪い事に、攻撃性を帯びたりする場合もある。
ペガサスへの執着というより、
「自分がペガサスに嫌われたくない」という執着である。
ペガサスの考えを全部掌握なんて出来ない。
しかしペガサスとコミュニケーションをとるなら、
ペガサスという「相手」の内面や立場を想像し、見立てながら、
自分の出方をコントロールして遣り取りをする。
嫌われたら仕方の無い事であり、
それもまた素晴らしい事かも知れない(?)と、思いながら。
そしてペガサスに振り回されてしまう人の「祈り」は、
こんな風になってしまっているのかも知れない。
「私は出来るだけあなたの期待に応えたいし、
あなたは私の期待に応える為に生きているべきである。
私はあなた、あなたは私と繋がっている。
あなたと出会えた事は素晴らしくしなければいけないし、
あなたが私の事を嫌ったり傷付けたりする事は絶対あってはならない事だ」
これは・・・ゲシュタルトの祈りよりも実現不可能な「祈り」かも知れない。
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