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2021年09月25日01:22

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ヨウジさん


幼児は無力だ。
親に守られて成長して行く事が仕事だ。
まだ自分では何も出来ない。
だから、自分の要望が、
親のへマで上手く行かなかった時、
親に文句を言うしかない。

大人になると、
自分で決められるし、
ヘマするもしないも自分次第。
環境が原因なら、
環境から逃げたり、出方を変えてみる事も、
自分で選べる。

しかし時々、
「あなたによって私の人生決まるんですよ」的な、
「あなたが私のとるべき行動を決めるべきだ」的な、
そういうコミュニケーションをとって来る大人に出会う。
それが目上の人であったりする場合もある。

これって、大人であっても、
時々は無意識にやってしまう場合というのも、
多くの人にあるかも知れない。
例えばちょっと負荷の大きい状況で、弱さを曝け出せる相手に。

でも、そうした「時には」という感じでは無くて、
日常的なコミュニケーションの最後が決まって、
「あなたによって私の人生決まるんですよ」的な、
「あなたが私のとるべき行動を決めるべきだ」的な、
そういう感じになる大人というのに、出会う事がある。

恐らくは、何らかの事情で、人生の何処かで、
「無力で親に決めて貰うしか無い幼児」のまま、
止まってしまっている大人なのだと思う。
そして幼児のダダに負けない位に結構堂々と、
理論武装さえ交えながら、こちらに求めて来る。
「この私の事をどうにかしろ」と。
「解決しろ」と。

幼児は自分の身を守る事で精一杯であり、
頼みの綱は親である。
重大な取引先相手も親のみとなる。

しかし大人になると、
目の前にいる相手の殆どは、親以外の他者だ。
日々、他者との交渉の連続である。
だからこそ、他者に対して想像力を巡らせる。
目の前の相手の立場や内面を想像しながら交渉する。

ところが、「この私の事をどうにかしろ」という大人は、
相手に「親」的なものを要求し、恐らく「相手の立場や内面」は想像していない。
だから時には、乱暴に攻撃的に一方的に依存して来る。

「過去に何らかの事情があったのだろう」・・・
と、その人の内面を想像しながら、距離感を調整する事になる。

「この私の事をどうにかしろ」という要求を通す為に、
割と「心」とか「情」とか「優しさ」とか「思いやり」という言葉を、
駆使して来る場合もある。
しかしそういう言葉で訴えるその人の目に、情やあたたかさは感じられない。
切羽詰まったものを感じる。余裕が無い。

そして切羽詰まった時にこそ、
余裕と想像力を持っていられるのが大人なのだ、と思う。
その為の修行が大人になる為の道かも知れず、
何らかの事情で、その道を通れずに来た人が、
この目の前の「からだだけ大人の人」なのかも知れない。

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