幼児は無力だ。
親に守られて成長して行く事が仕事だ。
まだ自分では何も出来ない。
だから、自分の要望が、
親のへマで上手く行かなかった時、
親に文句を言うしかない。
大人になると、
自分で決められるし、
ヘマするもしないも自分次第。
環境が原因なら、
環境から逃げたり、出方を変えてみる事も、
自分で選べる。
しかし時々、
「あなたによって私の人生決まるんですよ」的な、
「あなたが私のとるべき行動を決めるべきだ」的な、
そういうコミュニケーションをとって来る大人に出会う。
それが目上の人であったりする場合もある。
これって、大人であっても、
時々は無意識にやってしまう場合というのも、
多くの人にあるかも知れない。
例えばちょっと負荷の大きい状況で、弱さを曝け出せる相手に。
でも、そうした「時には」という感じでは無くて、
日常的なコミュニケーションの最後が決まって、
「あなたによって私の人生決まるんですよ」的な、
「あなたが私のとるべき行動を決めるべきだ」的な、
そういう感じになる大人というのに、出会う事がある。
恐らくは、何らかの事情で、人生の何処かで、
「無力で親に決めて貰うしか無い幼児」のまま、
止まってしまっている大人なのだと思う。
そして幼児のダダに負けない位に結構堂々と、
理論武装さえ交えながら、こちらに求めて来る。
「この私の事をどうにかしろ」と。
「解決しろ」と。
幼児は自分の身を守る事で精一杯であり、
頼みの綱は親である。
重大な取引先相手も親のみとなる。
しかし大人になると、
目の前にいる相手の殆どは、親以外の他者だ。
日々、他者との交渉の連続である。
だからこそ、他者に対して想像力を巡らせる。
目の前の相手の立場や内面を想像しながら交渉する。
ところが、「この私の事をどうにかしろ」という大人は、
相手に「親」的なものを要求し、恐らく「相手の立場や内面」は想像していない。
だから時には、乱暴に攻撃的に一方的に依存して来る。
「過去に何らかの事情があったのだろう」・・・
と、その人の内面を想像しながら、距離感を調整する事になる。
「この私の事をどうにかしろ」という要求を通す為に、
割と「心」とか「情」とか「優しさ」とか「思いやり」という言葉を、
駆使して来る場合もある。
しかしそういう言葉で訴えるその人の目に、情やあたたかさは感じられない。
切羽詰まったものを感じる。余裕が無い。
そして切羽詰まった時にこそ、
余裕と想像力を持っていられるのが大人なのだ、と思う。
その為の修行が大人になる為の道かも知れず、
何らかの事情で、その道を通れずに来た人が、
この目の前の「からだだけ大人の人」なのかも知れない。
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