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2020年03月30日20:11

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汝、船に乗れ 〜井上靖『四角な船』

――おれは初めて気分のいい仕事をした。若以外にこんないい仕事を持ち込んで来てくれた者はない。そうだろうが、大洪水の時でも沈まん船を造るんや。人間や生きものが根絶やしになっては困るから、代表で生き残って貰う船を造るんや。これ以上立派な、仕甲斐のある仕事はあるまいが。


新聞記者の丸子東平は、大学の同窓会の席で、「ノアの洪水がやってくることを信じて、それに備えたハコ船を造っている狂人がいる」という噂をきく。
丸子はさっそく、その狂人がいるという琵琶湖畔の村へ取材に向かう。

洪水の話は聞いたことがないが、そういうことを言い出す者に、わずかに心当たりがあるという地元通信員に案内されて、丸子はその人物を訪ねあてる。
代々の素封家である甍(いらか)家は、数代前に東京へ出て、村とのかかわりは薄くなっていたものの、十年ほど前に現在の当主が村に戻り、屋敷にすっかり手を入れて住んでいるという。
当主は何かの学問をしているらしいがーーー。

こうして丸子は、その洪水の話に、知らずとり憑かれてゆく。
洪水というよりも、甍という人物に、そして同様に、まっ先にとり憑かれたようにして甍の注文したハコ船を作り始めた船大工の棟梁の熱に、同調してゆく。
いつしか彼は、棟梁の相談役となり、また自身の金と時間を使って、行方をくらました甍を追って、方々を駆けずり回ることになる。

僅かな情報を頼りに佐渡島へ渡った丸子は、そこで一人の盲目の老婆と引き合わされる。

ーー甍さんは、な、ばあちゃが好きで、ばあちゃが浜に出れば、自分もいっしょに浜に出、ばあちゃが家に引っ込めば、自分も家に引っ込みなさった。どうして、あのように気が合うか不思議だったが、とにかく、一日中ばあちゃといっしょに居なさった。

浜で網を繕いながら、コクリコクリと居眠りをする老婆の首元に、丸子は銀の鎖でぶら下がったペンダントを見つける。
甍が、ある日老婆の頸にかけてくれたものだという。

ーーいいお方だった。何をなさってるお方か知らんが、めったにないいいお方だった。わしのことを褒める人などいないのに、あの方はわしのことを、会う度に褒めて下さった。えらい、えらいと言ってくださった。


甍に会おうとして果たせず、東京に戻った丸子は、子育て中の若いホステスと係わりを持つ。
甍のことを「ラカちゃん」と呼ぶ母娘を、いつの間にか本当の家族のように思い始めた丸子の元に、棟梁から、いよいよハコ船の進水式をするから来てほしいと連絡が入るーー。



井上靖の『四角な船』。
高校生の時、姉の本棚にあったこの本を手に取った私は、生涯忘れられない読書体験をした。
新潮文庫で500ページくらいはあったと思うが、時間を忘れて読み耽ったことを憶えている。
この本は、私のオールタイム・ベストの一つだが、今では古本でもほとんど手に入らない。
先日ちょっとした動機があって、図書館で所蔵していた井上靖の全集第20巻を借り出してきて数十年ぶりに読んだが、いささかも古びていなかった。

洪水を信じてハコ船を発注した甍は、かなり変わった名前をしているが、井上靖を少しでも知っている人なら、この13年前に書かれて後に映画化もされた『天平の甍』という作品に直ちに連想が及ぶだろう。
また、ヨーロッパのスキー大会で優勝した魁(さきがけ)という青年が登場する。
これも、甍に負けず劣らず風変わりな名前だ。
奇しくも丸子は、この青年の取材で訪れた羽田空港で、甍らしき人物を見かけるのだ。
この青年の存在は、物語のどの部分と響きあっているのか。


棟梁は言う。
――洪水が来るかどうかはそりゃ判らんだろう。そんなこと判らんかていっこうに仔細ないがな。大切なのは、洪水が来ると考えることや。

この小説が書かれたのは、昭和46年。
三島由紀夫の葬儀が営まれ、大鵬が引退し、夏には印パ分裂以降混迷を極めていたベンガル地方で大洪水が起きた。
そして今。
日本では、多くの人が、東日本大震災後の復興から取り残され、世界では新型コロナウィルスが蔓延し、棟梁の言うように、もういつノアの洪水がきてもおかしくないと思っている人は多いはずだ。

その時が来たら、誰が、船に乗るべきなのか。
あなたなら、誰を乗せたいか。
そもそも、ハコ船とは、何なのか。
・・・ハコ船の建造を、もう誰かがどこかで始めているかもしれない。


入手は極めて難しくなってしまったが、もう一度『四角な船』に日が当たらないものかと願っている。
高校生だったむかし、甍が、浜で老婆が魚網を繕うのに使っていた大きな針の穴から、じっと見ていた佐渡の海を、自分もいっしょに見たような気がするあの気持ちを、ほかの人にも体験してほしいと思っているのだ。





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