mixiユーザー(id:2399973)

2020年01月17日16:15

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1.17 この日を語り継ぐために 2020

25年。四半世紀なんてあっという間。そして1995年から時計の針を同じだけもどすと1970年。この年には大阪で万国博覧会、日本中とりわけ関西のひとたちが明るい未来に希望をいだいたとき。さらにそこから同じだけつまり25年ときをもどすと1945年。敗戦の年でこれまた日本中がこんどは絶望感にさいなまれていたとき。

たまたまとはいえ見事な節目。75年前から絶望・希望・絶望ときたからこんどは希望の出番なのだろうか。だからことしはとりあえず東京オリンピックが用意されたのか、などと言いたくもなり。ことしもまた1995年1月17日の個人的記憶を記した2007年の拙日記を貼り付けます。これで14回目、25年の半分をとっくに越えてました。

2007年1月17日のmixi日記
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12年も経つとだんだん風化していくのがわかりますね。ニュースの扱いも、関西ローカルでさえ以前ほどではないし。戦争を知らない我々は悲しみの共通体験みたいなものが少ないから、語り継いでいく必要があると思います。

その日前後の事をあえて感情的ではなくドライに書きます。もっと悲惨な目に遭っているかたがたくさんいるのは百も承知です。不謹慎かもしれません。でも事実を歪めたくないからそのまま書きます。

○三連休明けの朝だったので、その日はあまり眠れず、その瞬間も半分起きていた。マンションの12階に住んでいたので揺れは相当だったが“止まらぬ揺れはない”と妙に冷静でよつんばいのままじっとしていた。

○前夜、友人たちが遊びに来てすき焼きをした。食器類をしっかり乾かすためにあえて食器棚の手前に置いたので、食器類は全滅した。

○鉄道が動いてないと聞いて、ほとんど寝れなかった私は“これでもうしばらく寝れる”と思った。

○当日夕刻のなんばWALK、テレビの地震報道をサカナに酒を飲もうとするおっさんたちで居酒屋は満杯だった。職場にいても仕事にならず、一杯ということだろう。

○その日の大阪新聞(夕刊紙)は4ページだけ。思いっきり引き伸ばした写真数点だけで記事はなかった。

○元同僚S君が犠牲となる。彼は約1年前、父親の会社を継ぐために退社し、修業の毎日だった。自宅の芦屋旧家が全壊、S君と父親(つまり社長)が犠牲となり、母親と妹は助かった。
彼の安否を彼の会社に確認し、その悲劇を聞いて、みんなに伝えたのが私だった。こういう時、ドラマなどでは受話器を持ったまま目をつぶってうなだれて首を左右に振るのがおきまりのパターンだが、そのとき私がどんな行動をとったか一切覚えていない。S君が退社前、若手だけでスキーに行った時の写真があり、日付をみるとちょうど1年前の1月17日だった!

以上、ありのままの事実です。
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何度読み返してもついきのうのことのようで…。今回もまたマイミクのみなさんから、あの日の記憶をコメントの形でいただけたらと。毎回非常に詳細かつ重たい貴重な文章をいただき、たいへんありがたく思っています。軽々しい言葉でお返しするのがどこかはばかれ、ご返事できなくて申し訳なく思っているのですが。よろしくお願いします。

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