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2020年01月21日14:22

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最近、思ったこと。part0065

 本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生978日目、「極東戦域核戦争」開戦931日目、「人民の天皇論」宣撫開始267日目(怒)。〔緊急連載〕日本国軍「建軍」に関する議論における必然的な論理的帰結、早くも番外編その1。「アフガン戦争について」。はーーー、「5つも書けてないのに横逸れんなよ(-_-#)」と皆さんお思いでしょうが(笑)、すまん少し書かせてくれm(_ _)m。中川博士の追加レジュメを読んだ。俺の予測どうり自衛隊幹部の「赤化」が酷いらしい。


日本国自衛隊はここままなら敵側に「寝返る」(ToT)。


俺もそう思う(-_-;)。自衛隊OBの論文・言説読むたびに顔が引き攣るもんな(ToT)。例外はひげの隊長(佐藤正久外務副大臣)ぐらいか(-_-;)。今回のレジュメで一番気になったのが「陸海空の基地には、有事とともに、軍曹・尉官クラスの自衛官に扮装した中共解放軍兵士が恐らく1万人以上潜入して撹乱する」という部分。


これみんな「理解」し難いだろうが100パーセント確実に起こる事(怒)。


みんな共産党の「軍事統制」というものがどれだけ「卑劣かつ残忍」なものなのか全然わかってない(激怒)!奴等は指揮権限「ゼロ」で10万単位の兵士を平然と「死地」に追い込み、職掌権限これまた「ゼロ」で全滅寸前の部下をかばった人情部隊長を裁判過程丸々すっ飛ばして「皆殺し」にした挙句に


すべて「現場が悪い」と押し通す連中なんだよ(-_-#)。


その連中が敵として「戦時」に何しでかすかわかんねーーのかよ(-_-#)。これから「アフガニスタン戦争」を事例に「それ」を書いていく。なぜなら近未来、日本において「同種」の事が起こるとほとんど確信に近い「深い憂慮」を俺が抱いているからだ。まず、アフガン史の概略から入る。まず、言いたいのは


アフガニスタン人とは「月氏」族の末裔


であること。紀元前2000年頃、「アーリア民族の大移動期」トランスコーカサスの原住地からチャイナ西方へ移住し、チャイナ「夏王朝」に青銅器精製技術を伝えた連中。一説には「夏王朝」の創設者そのものつまり「黄帝」の一族ではないかとの仮説もあるが話がややこしくなるので本稿では割愛。この月氏族は中央アジアの陸上交通路を押さえ、イランそしてインドへ渡っていった同属とも連携し繁栄を極めたが、紀元前2世紀末、東胡族(蒙古・ツングース族)を従えたフン帝国の大攻勢を受け、チャイナ西方の領土(現チャイナ甘粛省及びウイグル自治区)を放棄し、同属を頼って中央アジア(現ウズベキスタン及びタジキスタン)に再移住しここでできたのが


最初のアフガン国家「大月氏」国


だ。紀元前160年頃の話。そのころの現アフガン地域は「マケドニアの乗っ取り屋」アレクサンドロス3世の部下が作ったグレコ・バクトリア王国の統治下にあり「原住民(イラン系トハラ人等)」に酷く嫌われていた(-_-#)。「乗っ取り屋」ってえのは「搾り取る」の大好きだが、「面倒見る」の大嫌いだからね(黒笑)。今の日本の「役人」みたいなもんさ、そりゃ嫌われるわ(怒)。これをチャンスと見た「大月氏」国は同属の塞族(サカ族≒スキタイ人)と同盟し現地住民の協力下、現アフガニスタン地域へ侵攻、グレコ・バクトリア王国を叩き潰し、ついで、グレコ・バクトリア王国のインド植民地「インド・グリーク諸王国」を壊滅させた。紀元前1世紀はじめの話。こうして


最初のアフガン帝国「クシャーン朝大月氏」帝国


が生まれたわけだ。ここで大月氏は大きく2つの種族に分かれる。インドに移住し混血したのが「パシュトゥーン族」、中央アジアに残った連中が「タジーク族」。両方合わせて「アフガン族」。3世紀前半に長い間、塞族の同属パルティア族の統治下にあったペルシア人が「叛乱」を起こしササン朝ペルシア帝国が建国されると、アフガン帝国はインド諸侯国とササン朝ペルシア帝国に「挟撃」されさしもの「大帝国」もあっという間に「空中分解」、激しく抵抗するも撃退され「パシュトゥーン族」は泣く泣くガンダーラ地方(現アフガン・パキスタン国境地帯)へと撤退する。紀元350年〜400年頃の話。5世紀前半にタジーク族を主体に塞族と同盟し再びインドへ侵攻、


第二次アフガン帝国「エフタル」帝国


を建国して「失地回復」を試みるも、間の悪い事に100年後に突厥(トルコ)帝国がモンゴル高原で勃興。インドで「失地回復戦」戦っている真っ最中に「根拠地」の中央アジア(現タジキスタン・ウズベキスタン)を突厥(トルコ)帝国に直撃されて再び「大帝国」はあっという間に「空中分解」しましたとさ(笑)。帝国崩壊から直後に、アフガニスタンに「決定的な出来事」が起こる。今度はアラビア半島にムハマンドが現れイスラム教が創設されその教義に基づいて


大アラブ帝国(ウマイヤ朝)が勃興したのだ。


大アラブ帝国の勃興の原因とその爆発的な拡大の経緯は宗教学的分析と交易路統治を主体とした経済学的分析を複雑に絡み合わせなきゃならないのでえらく時間がかかる。の・で・別稿に譲る。一言だけ書いておけば


イスラム教国は教義を「軽んじ」ると爆発的に拡大し、「尊守」すると四部五列に分裂する


ということ(-_-;)。初期アラブ帝国(ムハマンド〜ウマイヤ朝)は教義を「軽んじ」たが故に爆発的に拡大した。後期初期アラブ帝国(アッバース朝)は教義を「尊守」したが故にアッという間に「四部五列」に分裂した、ただし、その「宗教的権威」は1000年の長きにわたり尊重された。ムハマンドの聖遷が622年、ウマイヤ朝の奪権が661年、アッバース朝革命が750年なのに789年には「世襲王朝」の分裂が始まり、900年までにはほぼ全域で「世襲王朝」が確立された。


130年で「大拡大」、150年で「大崩壊」。


それが「初期イスラム教国史」。それともう一言書いておけばこの地域の「イスラム化」は「崩壊期」に始まり、「分裂期」に爆発的に進展した事。いずれ書く、「イスラム教国史」で詳述する。話がずれた元に戻す。567年頃エフタル帝国「本拠」が壊滅し、兵站線を絶たれた「パシュトゥーン族」は650年頃〜700年頃にかけて再びインドから撤退し旧来の根拠地ガンダーラ地方ではなく、突厥(トルコ)帝国から縦深のあるカンダハル地方(現アフガニスタン南部)に自分たちの「新根拠地」を作り上げ突厥(トルコ)帝国の間接統治下に「部族連合」を形成した。


これが現代まで続く教義の「アフガン民族」の事始。


しばらく突厥(トルコ)帝国下にいたが751年にタラス河畔会戦でサビル・トルコ二重帝国(大唐帝国)が大敗して、元々の自分たちの根拠地・中央アジアが後期アラブ帝国(アッバース朝)の支配下に入ると、交易の関係から自然と突厥(トルコ)帝国を離れ、「積極的」に後期アラブ帝国(アッバース朝)に参入した。ここで


アフガン人のアイデンティティの根本となる「律法派ムスリム(スンナ派)」信仰


が始まるわけ。「積極的」にってとこが重要、敵対していたペルシア人・トルコ人・インド人が当時はまだ「ムスリム(イスラム教徒)」ではなかったんで「独立」の為にはアッバース朝の「アラブ人」と信仰を通じて連携したがったわけよ(-_-;)。これが後に「アフガン人自身」が語る「アフガン人アラブ起源説」に繋がる訳だが話が複雑になるので割愛。ビンラティン(アルカイダ)とオマル(タリバン)の関係はこれが原点。ちなみにアフガン人元々は仏教徒です(ToT)。821年にアラブ人の一部がイランで自立し始める(アラブ系ターヒル朝イラン王国)とそれに反発して


861年にサッファール朝アフガン王国を建国


これが現在のアフガン国家の原型となった第一アフガン王国。だーがー、ターヒル朝が地元有力者にひっくり返されサーマーン朝イラン王国が起こると改宗トルコ人傭兵団(後のマムルーク軍団)を編成すると一挙に強大化し900年にサッファール朝アフガン王国を征服。王国は再び「部族連合」に解体され分割統治を受ける。ここから


アフガン族は2種の「部族連合」としてのながーい中世史


を歩むわけだ(-_-;)。分り易く言うと「アフガン部族連合」を味方に付けた「奴」が「帝国」を造る傭兵的「戦闘民族」としての中世史を歩むわけ、ちと、スイス人に似てるね、凶暴さ「世界一」だけど(黒笑)。最初に「アフガン部族連合」を雇ったのがサッファール朝を滅ぼすために攻め込んできたマムルーク軍団の長・アルプテギーン。955年の話、これが後のガズナ朝アフガン王国。アフガンに在るがトルコ系王家を頂くイラン系王朝だ。同じアフガン族でも「タジーク部族連合」はアッバース朝下に留まりサビル・トルコ連合軍迎撃の尖兵となったためアッバース朝そのものがチャイナでは「大食(タジーク)」と呼ばれるほど大奮戦した後、ガズナ朝とまったく同種のトルコ系王家を頂くイラン系王朝・カラハン朝に臣従した。ちなみに「パシュトゥーン部族連合」は軍官専門だが、「タジーク部族連合」はけっこう文官も多く出している。日本風に言えば「パシュトゥーン部族連合」が平家で、「タジーク部族連合」が源氏みたいなもんだな(-_-;)。話がずれた、元に戻す、そして


ガズナ朝アフガン王国は「パシュトゥーン部族連合」の家業・インド侵攻


に精を出すことになるわけだ(苦笑)。しかし、「しぶとい」、インド人にしてみれば「げーーー、又来たよーーーー(ToT)」としかいいようがないわな。しかも今度は「イスラム布教」というインド側から見れば「トンデモ目的」バリバリなんだから始末が悪い。ムスリム側から見れば文字どうりの「ジハード(聖戦)」、はーーー、ほんと「この問題(インド・パキスタン問題)」始末に置けねえわ(ToT)。ちなみにガズナ朝型アフガン王国(インド帝国)はこの後、


1117年、現地アフガン族がガズナ朝のトルコ系王族を追い出しゴール朝アフガン帝国建国(第二アフガン王国)
             ↓
1206年、インドでトルコ系マムルーク軍団が反乱して「独立」した、あげくに1215年に中央アジアからホラムズ・シャー帝国が侵攻、1221年にはモンゴル騎馬軍団の全面攻撃を受けて完敗、再びびんぼー「部族連合」に大転落(笑)。
             ↓
1257年、モンゴル大帝国のフレグ遠征軍が到着。当初の予定のヨーロッパには向かってくれず、イランに居座ってしまったため「アフガン部族連合」の領地はチャガタイ・ウルス、フレグ・ウルス、そして逆襲してきたデリーのマムルーク軍団に3分割される。
             ↓
1380年、アフガン族は同属のタジーク部族連合の伝で中央アジアに勃興したネオ・チャガタイ・ウルスの長キャン・バルラス・テムル(チムール大帝)に臣従、その力を借りて1398年、再びデリーに侵攻、「インド征服者」としての地位を回復する。
             ↓
1500年、ネオ・チャガタイ・ウルス(チムール帝国)がモンゴル・ジョチウルス・左翼(シャイバーン朝ウズベク汗国)の民族移動的大侵攻を受け壊滅、残党のバーブルの元珍しく一致団結し、インドへの全面侵攻へと踏み切る(ムガール朝アフガン帝国)。


と延々と続き、アフガン族が「やりたい放題征服者」⇔「嫌われ者で内ゲバ連続のビンボー部族連合」を複雑な政治的経緯を経ながら「往復」していたことがよく分る(黒笑)。しっかし、「極端な連中」だよ(-_-;)、「天国と地獄」往復しながら「しぶとさ」だけは磨いてきたんだな、ほんとアフガン人に生まれず日本人でよかったよ(ToT)。この後、ムガール朝アフガン帝国は複雑な経緯をたどりながら大英帝国に併合されていくわけだが、少し長くなった、その話はまた次回語ろう。


PS、英国王室で王位継承順位6位のヘンリー王子が事実上の「王室追放」の事とあいなった、きわめて残念(-_-;)。メーガン妃の人種(アフロアメリカンのハーフ)が問題となったと「酷い誤認」が広がってるし、今後このプロパガンダがロシアから延々とアナウンスされるのだろうが、


騙されてはいけない(-_-#)。


「それ」が問題なら始めから結婚は「承認」されていない(怒)。2人は英王室の居城ウィンザー城で挙式上げてんだぞ(-_-#)。問題の中核はメーガン妃が極左思想「フェミニズム」の宣撫者である事(怒)。英国王室は「あまり好ましくない」と困惑したが「人種(アフロアメリカンのハーフ)」も「極左思想・フェミニズム」も


2人の「幸福」のために渋々受け入れた(-_-#)。


なのに、2人は英国王室が「絶対」妥協できない「公務」と「伝統」を「フェミニズム」に基づいて「拒絶」した(怒)。そりゃ、「出てけーーーーーーー!」となるわな(-_-;)。ヘンリー王子とメーガン妃が1月8日に表明した「主要公務からの引退」は


「フェミニズム」に基づく「公務と伝統」を「選別」する試みである(怒)。


他国とはいえ「王室」のトラブル・弱体化は「世襲」を旨とする「保守主義者」としては酷く悲しい(ToT)。だか、今回の事に関しては「英王室」の処置を「断固支持」する(怒)!王室から特に立憲君主朝から歴史に基づいた「公務と伝統」を引き抜いてしまえば他に何も残らない(怒)。それを誰かヘンリー王子とメーガン妃に伝えて欲しい。2人にとってもアーチー王子にとってもそれが「最良の選択」になると思う。ふーーーー。きっ重(ToT)。


PSのPS、蛇足だが現アフガニスタンの首都カブールは古い街だが首都として整備したのは当時領主だったバーブル。それ以前はカンダハル・へラート・ペシャワールがアフガン(パシュトゥーン部族連合領)の3大都市だった。建設の経緯は少し北京とよく似ているね(笑)。




おまけにみくしー検索かけてみました。


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