mixiユーザー(id:23862502)

2019年10月04日14:21

142 view

幸せであるということは、不幸の不在によるものである

幸せ、一口に言っても、その価値観は十人十色だろう。
お金が欲しい、美しくなりたい、健康でありたい、頭が良くなりたい、地位や名声が欲しいなどなど。
では聞く、これらがあれば人は幸せなのか?
いや、残念ながら答えはノーだ。
一度手に入れても、今度はそれを失う恐怖に苛まれる。
じゃあどうすればいい?
手放すこと。
すべての欲望を手放す。
そうすれば必然的に人は幸せな状態になる。
幸せとは何かを得ることではなく、状態を表す。


「無我」この単語を耳にしたことはありますか?
自我が無くなる状態、つまり、自分と自分以外を隔てる境界線が無くなることです。

一般に悟りといわれる状況がこれにあたります。
ここまでくれば、一段階段を上ったことになります。
一見すると簡単なようで、実はとても難しいんですよ。


だって、私は私、あなたはあなた、そう思う人が大多数だからです。
大本は一つなんです。
これに気づけるかどうかが重要です。
俗にいうワンネスですね。

ところで、どうしてこの世は苦しいことに満ちているのか疑問に思ったことはありませんか?
苦しくて当たり前なんです。
この世をRPGに例えてみましょう。
いざ冒険に出かけてみても、スライム一匹出てこない。
ステータスはすべてMAX、武器も防具もお金も呪文もすでにフル装備。

ドラゴンはすでに倒されていて何もすることがない。
そんなゲームのどこが面白いですか?
ストーリーからエンディングまですべて最初からわかっていたらプレイする意味ないでしょ。

これをこの地上に当てはめてみたら…

ですよねぇー、人生はRPGのようなものでもあるんです。
作ったのは神。ゲームを面白くするために記憶の消去を行ったのです。
これでゲームに没頭できますね。


ゲームなんですから恐れる必要はありません。自由にやりたいことをやればいいだけです。
キャラクターが死んでもプレイヤーは死にません。
世の中にはキャラクターになりきってしまって四苦八苦してる人が少なくないんです。
物事を俯瞰して見ることが大事です。
ゲームオーバーになったら、また転生してもいいです。
しかし、本当の目的は解脱することです。
ゲームは所詮ゲームでしかありません。

神がなぜこのようなゲームを作ったのか、それは善いとは何かを知るためでした。
善いことを知るには善くないことを作ればいいんです。
だからこの世は苦しみに満ちているのです。
キャラクターが死ねばプレイヤーは大本に帰ります。
よく、コップの水に例えられますね。
この世に生を受けるということは、コップから一滴の水となって出てくるということです。
水を少しでも綺麗にして故郷に帰る。
そしてコップの水は純度を増すのです。
この作業を延々と繰り返しているのが我々です。
気づいた人から輪廻転生のサイクルから抜け出ることができます。その先に真の幸せなひと時が待っています。
遅かれ早かれみんな気づきます。
春が訪れれば花が咲きますよね。
咲く時期に個体差はありますが、いずれ咲きます。
もうすでに時代は春の訪れを迎えています。
あなたは私、私はあなた、我々は神であり、神は我々。
そして我々は一つ。
いかがですか、もう恐れる必要はないでしょう。
我々はすでに幸せなのですから。
だから、私は事あるごとに、私は幸せだと申し上げているのです。これは嘘偽りはありません。
誰かと比較すること自体がナンセンスです。
ですから、そのままのあなたでいてください。
これは、何も行動するな、怠惰でいろという意味ではありません。他の何者かになろうとする必要はないということです。

さあ、今この瞬間幸せになっちゃいましょう!
4 7

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する