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2020年01月28日19:58

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「水軍遥かなり」

 「水軍遥かなり」(加藤廣著 文藝春秋 2014年2月25日第1刷発行)を読みました。


 この本の主人公は、志摩国の鳥羽藩主となった九鬼守隆(くきもりたか)です。

 物語は、九鬼守隆とその父九鬼嘉隆(くきよしたか)を縦糸とし、それに、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を横糸として、戦国乱世の中、九鬼親子が、どのようにして生きていったかが生き生きと展開されていました。

 

 まず、九鬼守隆の父九鬼嘉隆ですが、彼は、志摩の九鬼家の分家の生れで、志摩の陸と海を荒らし回った、荒くれ男でした。そのため、地元では爪はじき者となり、志摩を追われます。

 しかし、3年余の流浪の末、織田信長に拾われ、その配下となります。織田信長の強力軍団と手を結んだことで志摩の国に再上陸し、今度は、本家をも乗っ取り、志摩国の盟主に成り上がります。

 その後、信長の命で鉄甲船を作り、毛利の村上水軍を破ったことで、九鬼水軍の実力を示し、信長の信を厚くします。

 或る年の年賀の折り、九鬼嘉隆は8歳の子九鬼守隆を連れて安土城に赴きます。信長は、好奇心の強いこの守隆を気に入り、二人だけで話し込みます。

 その際、信長から、いろいろと宿題を出されましたが、その後、信長は忙しく、二人は会うことが出来ず、結局、信長が本能寺の変で亡くなってしまい、宿題に応えることは出来ずに終わってしまいます。

 

 その後、ご承知のように、天下は豊臣秀吉のものとなります。

 九鬼嘉隆は何度か守隆を連れて秀吉の所に赴きましたので、守隆も秀吉とは面識を得るようになります。

 九鬼親子は秀吉の下で懸命に働きますが、二度目の朝鮮出兵の折りには、何故か、嘉隆は水軍から外されてしまいます。

 悲観した嘉隆は、跡目を守隆に譲り、隠居してしまいます。

 そうこうしているうちに、秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いになります。

 

 守隆は、徳川家康の東軍に付きますが、父の嘉隆は、秀吉政権下で石田三成に世話になった関係で、隠居の身でありながら、息子の守隆が東軍に付いて働いている留守の折り、守隆の了解も得ずに勝手に西軍に付いてしまいます。

 その後、守隆からの家康への必死の助命嘆願がなされ、家康から助命の了承を得ますが、その助命の知らせが届く直前、嘉隆は、責任を感じて自害してしまいます。

 一方、守隆は、家康から目をかけられ、2万石の加増を受けるなど、家康から可愛がられます。

 最晩年、守隆は、家康から駿府城に呼ばれ、二人きりで話し合います。

 その時、家康から聞かされた話の内容は、次のような構想でした。

「駿府城下に港を作り、駿府城と一体化したその駿府の基地を中心に南方進出を図るつもりでいる。そして、駿河の商家の出身で、今はアユタヤにいる山田長政を我が国の南方方面軍の総大将とし、守隆、そちらをその海上支援軍の総大将とするつもりでいる。私は、その二人の総司令となるつもりでいる。」

 その構想を打ち明けられた守隆は、新造船の建造に邁進します。

 しかし、その後、その話はなかなか進行せず、そのうちに、家康が病没してしまいます。

 家康の後を継いだ元々が頭脳明晰でもない二代将軍秀忠は、国の対外防衛にまで頭が及ばなかったし、ましてや、海外進出など想像も出来ない人物でした。

 結局、守隆は、家康が、駿府を中核とする「対外防衛思想」と「海外進出計画」を秘かに持っていたことを知っていましたが、それを将軍筋に説明する場は得られませんでした。

 家康の海外進出戦略論は、一人、守隆の夢物語となり歴史から埋没してしまいます。

 それでも、守隆は、その後も、黙々と新造船に取り組みますが、失意のうちに亡くなります。享年60歳。



 なお、この本には、秀吉の朝鮮出兵の際の水軍の戦いの様子が詳しく書かれていました。

 この際の、朝鮮水軍の亀甲船の話が、よく、或るブログに登場していて興味がありましたので、少し力を入れて読みました(^^;

 それで、その部分の幾らかを紹介し、この本の紹介に代えさせていただきます。

 紹介する朝鮮水軍の亀甲船の話は、秀吉の二回目の出兵の際の話が中心になります。



「まず、亀甲船の正面からの大砲攻撃をかわすための戦闘艦の旋回方式をやめた。亀甲船が向かってくると、逆に舳先を、そのまま向けたのである。直進して突っ込み、大量の亀甲船を撃破、転覆させた。なぜそれが可能だったのか。

 当時の大砲は固定式で、撃つ間隔が長い。砲身の方向を見定める余裕があり、進む方向をすこしずらせば弾丸はあっさりと水中に落ちた。

 また、当時は「重力」の存在を知らなかったから、発射角は水平である。従って落ちてくる時の力はごく弱い。弾丸自身が爆発しないから、当たっても、甲板の上を、ドスン、ゴロゴロ、あるいは帆柱を傷める程度で終わりであった。

 哀れをとどめたのは相手の亀甲船ばかりではなかった。その開発者であった李舜臣のその後であった。

 李舜臣は、その後、強国日本軍を撃退した功績を買われ、三道水軍統制使という朝鮮南部の水軍の総司令官に抜擢された。

 しかし、休戦期間を無視し、巨済島に現れた日本水軍に攻撃をしかけて、逆に敗れたことからケチがついた。

 明は進行中の和平交渉の妨げになるとして、李の交戦禁止を命じた。が、李は、朝鮮の独自性を主張して聞かず、その後も再々巨済島に現れた日本の水軍に攻撃をしかけては負け続けた。

 すでに、この頃から亀甲船の神通力は失われていたのである。この時の相手は福島正則と島津義弘であった。

 李の勝手な行動に対する明の非難が高まり、また数次に亘る海戦の失敗から、朝鮮王朝は黙っていられなくなり、李の査問が行われた。

 その結果、李は地位を追われた。

 一旦は死罪を宣告されたが、取りなす者があったらしく放免され、一兵卒に落とされたというから、ずいぶんと極端から極端に走ったものである。

 休戦が終わり、再戦となった。ところが李の後任の元均は、再び巨済島海戦で大敗。朝鮮水軍は、これでほとんど壊滅してしまったのである。

 ここで李の再起用となった。

 だが、残る水軍は少ないし、亀甲船は、すでにただの「亀の子」に過ぎなかった。

 それでも、李は残り少ない艦船をかき集め、挑戦を試みたのは立派である。

 亀甲船が無力と知ると、次には半島西南端の潮流の激しい海峡に日本水軍を引き入れ、散々日本水軍を苦しめ、勝利を収めることもあったようである。しかし、いずれにしても局地的な勝利に過ぎなかった。  (P.428〜430)」



「・・・遠征軍の引き揚げが正式に決まり、石田三成以下は筑前博多に下って在朝鮮諸将撤収事務に従事した。

 しかし、撤収命令が出たからといって、最前線は、「はいそうですか」というわけにはいかなかった。小西行長は、明水軍との間で休戦の話し合いをまとめたものの、朝鮮水軍を率いる李舜臣が頑なに戦争継続を望み、一時小西軍は帰国する海上を封鎖されて孤立。島津義弘の水軍の助けを借りて、やっとの思いで脱出するという一幕まであった。この復讐戦で、日本軍は朝鮮水軍に大打撃を与えた。李舜臣はこの時の一斉射撃を受けて、あっけなく即死した。    (P.445) 」











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