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2015年09月10日22:29

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全国民必読!湾岸戦争のトラウマ「金を出すだけでは国際社会から評価されない」の大嘘(2015.9.10東京新聞より)

日本は湾岸戦争で本当に国際社会から評価されなかったのか?
東日本大震災時のクウェートの対応を見れば、決してそんなことはないと分かりますね。

むしろ、「金を出すだけでは国際社会から評価されない」と声高に叫んで、自衛隊の海外派遣に道を作ろうとする作為的なものを感じます。

ちなみにクウェートは、日本の福島原発事故を受けて原発建設の計画を撤回した国です。
原発を放棄するということは、すなわち核を放棄するということ。
中東という地でのこの決断は、実に立派だと思いますわーい(嬉しい顔)

東京新聞 電子版はコチラから↓
http://digital.tokyo-np.jp/



―以下、記事書き起こし―

湾岸戦争 クウェート感謝広告 「日本外し」真相は

 安全保障関連法案で根本から変わろうとしている日本の防衛策。その議論の原点といえるのが1991年の湾岸戦争だ。イラクの侵攻から解放されたクウェートの感謝広告に日本の名前がなかった事実は、自衛隊海外派遣を求める主張の有力な材料となってきた。
 クウェート解放のために約130億ドル(約1兆5500億円)を支援しながら、日本は感謝広告の30の国に入らなかった。日本は本当に国際社会から批判的に見られたのか。
 安保法案の国会審議が大詰めを迎えた今、当事者たちに当たると、語り継がれてきた筋立てと異なる事実が見えてきた。


湾岸戦争「日本は感謝されず」 自衛隊派遣の口実に

 日本は曲がり角に立っていた。1991年1月に始まった湾岸戦争は米軍を中心とする多国籍軍の猛攻により2月に終わる。サダム・フセインのイラクが突如、クウェートに侵攻したのは前年8月。半年あまりでの終結だったが、日本は、平和憲法を持つ国として、世界の安全保障にどうかかわるのかと言う問いを突きつけられ、答えを出せないままだった。ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズなど米主要紙にクウェートの感謝広告が出されたのはそんな時だった。
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【衝撃 あれだけ援助しているのに】

 衝撃はワシントンから広がる。「よく見ると日本の名前がない。『あれだけやったのになんだ』と…」。在米日本大使館の公使だった平林博(75)は新聞を手に大変なことになったと感じた。

 「ありがとうアメリカ そして国際社会」の太い文字が目立つ。ペルシャ湾岸の地図とともに、クウェート、米国、英国など11カ国の国旗。「クウェートの主権と独立を回復してくれた米軍と国連有志連合の迅速な対応に感謝します」で始まる長文の謝辞に続き、アルゼンチンから米国までアルファベット順に30の国名がある。だが、日本を示すものは何もない。

 日本政府は動揺した。首相の海部俊樹(84)は今も鮮明に驚きを覚えている。「怒って、すぐに抗議も申し込んだんだよ。失礼じゃないかと。法人税を2%、ガソリン税を40円上乗せして、せっかく集めたお金で、努力しているのになんだと…」

 89年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦は事実上終わっていた。米ソ両超大国が世界の隅々に目を光らせた時代は去り、国連による平和維持が重みを増す時代になろうとしていた。90年8月、クウェートにイラク軍が侵攻すると、米国は単独行動を避け、多国籍軍による解決を模索する。

 湾岸産油国に原油を頼る日本にも貢献の圧力が高まった。バブル景気を背景に、国外の不動産を買いあさり、貿易摩擦を起こす日本に米議会は厳しい目を向けた。政府は大慌てで「国連平和協力法案」を国会に提出する。自衛隊の海外派遣に道を開く法律だったが、急ごしらえゆえ、与党、政府内でも意見が対立し廃案となった。

 政府は結局、米国を中心とする多国籍軍への金銭的な支援に踏み出し、最終的に130億ドルを負担する。国民一人当たり1万円以上。破格の額だった。

 感謝広告から漏れ、憤る日本政府は、東京、米国、中東でクウェートに詰め寄った。クウェート川は遺憾の意を示すが、外した理由を明確にしたとは言い難い。駐クウェート大使だった黒川剛(82)はクウェート外務省に出向き、高官と二人きりで向かい合ったのを覚えている。「巨額の援助もしているのに、日本がないのは承服できない」。先方は「よく分からない」と答えた。「相手はすっとぼけているわけですよ」と黒川は記憶をたぐった。

 米国では、日本大使館の外交官がクウェート大使館に抗議に訪れている。
 
 与党自民党など、自衛隊派遣を求める勢力は情緒的ともいえる論調を日増しに強める。「日本が感謝されなかったのは、金だけを出して、人を出さなかったからだ」と。

 当時の外務次官で今年4月に死去した栗山尚一は世を去る2ヶ月前、本紙の取材に「日本は人を出さなかったことを非難されたわけではない。出せない理由に説得力がなかった」と振り返った。「日本の平和主義とは何かが問われたが、答えが出せなかった。未だにさまよっている」と思いを語っている。


【主張 人命かけねば尊敬得られぬ】

 広告掲載後のひと月後の91年4月、イラクが敷設した機雷を除去するため、政府は自衛隊掃海艇のペルシャ湾派遣を決断した。国会の論戦で、早くも広告が政治的なカードとして登場する。派遣賛成の民社党、和田一仁(故人)は質問に立つと、日本が広告に入らなかったのは「人の面での貢献が不十分であったことに原因がある」と断じ、掃海艇を派遣しなければ「自らの手は汚さない国とさげすまれても仕方ない」のだと訴えている。

 以後の国会の議事録には、小渕恵三(故人)、小泉純一郎(73)、麻生太郎(74)、安倍晋三(60)ら歴代首相をはじめ、この問題を取り上げた多数の政治家の発言が残っている。

 野党の牛歩戦術に至るPKO協力法案を議論した91年秋の衆院特別委。中山太郎外相(91)は感謝広告を引き合いに出したうえで国が「人命をかけてまで平和のために貢献する」時に「国際社会は敬意を払い尊敬する」のだと主張した。

 2001年9月11日に米中枢同時テロが起きた後は感謝広告問題の出番が再び増える。03年の衆院憲法調査会。自民党の中川昭一(故人)は130億ドルの支援をしても「国際社会からは何らの評価を受けることはありませんでした」と断定し、自衛隊法を改正し、海外での正式な任務とするべきだと持論を展開した。

 近くでは13年11月の衆院特別委。答弁するのは首相の安倍晋三だ。「感謝を示す広告において日本の名前がなかったことは、私自身にとっても多くの日本国民にとっても衝撃であった」と述べ、「自分の国さえ平和であればよいとの一国平和主義の考え方ではわが国の平和を守ることはできない」と持論の積極的平和主義につなげてみせた。
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【経緯 広告リスト 出どころは米国】

 砂まじりの熱い風がビルの間を吹き抜ける。高級車が平然と道を行き交う光景から、イラク軍がここを襲った25年前をたどるのは難しい。首都クウェート市のビルの一室で白い装束姿のアルシャリク(70)は感謝広告問題の核心に触れた。「あの広告のリストはそもそも私たちがつくったものではない。つくったのはアメリカだ」 
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 当時、東京に駐在していたエリート外交官は現在、政府外郭団体の代表者。「日本をわざと外したんじゃない。それは確かだ。広告をもう一度出せるなら、間違いなく日本を入れる」と自信満々で説明し、「あれは『多国籍軍に感謝を示そうじゃないか』と米国にいたクウェート大使が言い出した広告だったんだ」と続けた。

 説明によると、発案者は当時の駐米大使サバハ(故人)。感謝広告を企画し、米国防総省に多国籍軍の参加国リストを求めた。もちろんそこに日本の名はない。「戻ってきたものがそのまま広告になったんだ」とアルシャリクは言う。

 広告の謝辞には「究極の犠牲をいとわなかった米国民に揺るぎない感謝をささげます。ありがとう」とある。米国を強く意識しているのは確かで、日の丸や日本の国名がなくても大きな違和感や矛盾はない。

 在米日本大使館の元公使平林は今、「あえて言えば、クウェート側に悪気はなかった。わざとやったんじゃない。ただ、なんでも人にやらせちゃう国だから。やれということだけで、後は任せたんじゃないかな」と推測する。

 広告が掲載された当時、外務省内に騒ぎを冷ややかに見る人々がいたことも明らかになった。匿名を条件に打ち明けるのは外務省の元高官だ。「当時はあんなつまらんことで騒ぐなんてと思ってましたよ。(在米)大使館の張り切った連中がさあ首を取ったと広告を使ったのは間違いない。米国の議員に叩かれていたから。それに乗って、やっぱりお金だけではだめなんだという議論に持っていきたかったんだよ」

 当時、中近東アジア局長だった渡辺允(79)も「自衛隊を海外に出す、いわゆる普通の国になるという人たちと憲法9条なんだという人たちの対立的な違いがあったわけです。その中で、自衛隊を出さなかったからこうなったんだということに使われた可能性はあると思う」と同様の見方を示した。

 感謝の念があってもなくても、クウェート側に日本への配慮は期待できなかったはずだという見方もある。「支援したあの金はだれが使ったのでしょう。ほとんど米軍の朝飯代になったわけですよ。だからクウェート人はあまり恩義を感じてない」。クウェート大使だった黒川は話す。

 日本の支出のうち、110億ドルは米軍中心の多国籍軍向けで、クウェートに直接的に送られたものではない。残り20億ドルもヨルダンなど周辺国への超低利借款だった。しかも資金は、新設された組織を通じた間接的な供与だ。

 援助が小出しだったことを指摘する声もある。イラクのクウェート侵攻から約4週間後、日本政府は10億ドルの支援を発表し、その後さらに10億ドル。90億ドルを積み増したのは湾岸戦争開戦から一週間後だった。朝日新聞の米国特派員だったジャーナリスト外岡秀俊(62)は「ものすごい額を出したが、少しずつだから日本が協力した印象が残らなかった」と指摘した。


【記憶 クウェートは忘れていない】

 白い民族服の若い男たちが一人また一人、列に加わってきた。気温40度を超えるのに人並みは途切れない。2011年3月、クウェート市の日本大使館に東日本大震災被災者のためにと富裕層も労働者層も義援金を手に集まる。当時の大使小溝泰義(67)は光景に「圧倒された」という。

 驚きは続いた。1ヵ月後、国際会議の席上、クウェートの石油相が切り出した。「原油500万バレルを日本の苦しみを軽減するために無償で提供することをサバハ首長が決定された」

 原油は400億円に相当した。首長といえども国の生命線の石油を簡単に他国に贈れない国。小溝は自身の着任式でサバハ首長にかけられた言葉を思い浮かべた。「日本は130億ドルもの援助をしてくれた。私たちは決して忘れていない」

 米国はどうだったか。巨額支援への強い感謝の念は何度も示されている。元米軍総司令官シュワルツコフ(故人)は自伝で日本の資金がなければ、作戦は「破綻していただろう」と書いた。外岡はジョージ・ブッシュ大統領の国家安全保障担当補佐官を務めたスコウクロフト(90)にインタビューし「日本の貢献に感謝している」と聞いている。

 外岡は、日本が国際社会から感謝をされていなかったという筋立てで語り継がれることに「感謝広告は米国で当時、ほとんど話題にならなかったし、いまだにその話をするのも日本人だけ。どうやって広告ができたか検証していれば、こんな話にはならなかったでしょう」と自戒を込めた。

 外務省の元大使などOBらでつくる霞関会(かすみがせきかい)の月報に一連の湾岸危機をめぐる論文が載ったのは08年3月。執筆者は湾岸戦争当時、クウェート亡命政府があったサウジアラビアの日本大使だった恩田宗(82)。日本の貢献について「国際的に評価されなかった論は、誰もが認めることとして定着してしまった。しかし、国際的に評価されなかったとの断定は正しくない。少なくとも正確ではない」と書いた。部隊や要員の国外派遣を主張する際の便利な「枕ことば」として使われてきたと指摘している。

 恩田は91年2月、クウェートの首長や外務次官から直接感謝の言葉を受けた。「クウェートは感謝している。お金を出して日本は感謝された。人を出すのが重要で金がだめだと言うのはあまりにも乱暴だ」。取材にそう語った。

 クウェート市にある「湾岸戦争記念館」・名称の直訳は「サダム・フセイン政権の犯罪を忘れない博物館」だ。戦争のジオラマや米国の功績を紹介する展示がある。米国に比べ控えめな日本コーナーには、ペルシャ湾で掃海作業をする自衛隊と見られる写真が7枚掲げられ、アラビア語と英語で「イラクのクウェート侵攻時、日本は130億ドルという最大規模の金銭支援とその他の貢献を提供した」という解説がある。

 記念館の存在も感謝の言葉も、日本ではこれまで大声で語られることはなかった。感謝広告問題がただ日本の失敗や屈辱として語られるばかりだ。
(文中敬称略)

 長田弘己、野村悦芳、中村禎一郎(カイロ支局)、垣見洋樹(ベルリン支局)


※湾岸戦争
 サダム・フセイン大統領のイラクが1990年8月、隣国クウェートに突如侵攻して併合を宣言したのに対し、米国主導の多国籍軍がクウェート解放のため戦った戦争。米国のイラクへの本格的軍事介入の始まりとなった。イラクが国連の度重なる撤退要求を無視して占領を続けたため、国連は武力行使容認を決議した。多国籍軍は91年1月17日に空爆を開始し、戦争に突入。圧倒的な軍事力を背景に地上戦を経て2月26日にはクウェートを解放した。ピンポイントの爆撃の映像が中継され、テレビゲーム感覚の戦争とも言われた。
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―書き起こし以上―



安保法案、衆院再可決を検討
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3608423
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