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2019年01月13日09:30

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年賀状

 昭和の半ば頃、「年賀状はできたら毛筆、最低万年筆で書くべき。ボールペンは失礼」と私は教えられました。
 昭和の末期、「年賀状は自筆で。印刷は失礼」と言われていました。
 平成の末期、年賀状は出すだけでポジティブに評価されるようになったようです。

【ただいま読書中】『ロバート・キャパの謎 ──『崩れ落ちる兵士』の真実を追う』吉岡栄二郎 著、 青弓社、2014年、2000円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4787273566/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4787273566&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=7bdf3f37f85fe181d584455e6cb24268
 1936年7月、スペイン共和国に対してフランコ将軍はモロッコで革命を宣言。すぐにバルセロナで戦闘が勃発します。ロバート・キャパは、女性カメラマン、ゲルダ・タローと共にパリを発ちスペインに入ります。仕事の名目は迫力ある戦争写真の撮影ですが、彼個人としては、ユダヤ人の亡命者としての自分自身を内戦に投影して市民軍に非常に強い共感を感じていました。
 著者は先行研究を参考にしつつ、二人のスペインでの足跡を丹念に追い、たとえば「共和国軍市民兵を激励する将校 コルドバの前線・1936年9月」の写真は、9月5日セロ・ムリアーノで開かれた決起集会であると日時と場所を特定します。
 『崩れ落ちる兵士』の写真は、あまりに有名ですが、「真実の写真ではなくて演出だ」「プロパガンダ用のやらせだ」とする疑義も盛んに提出されていました。それに対する反論も盛んでしたが、問題となるのは「兵士は誰か」「ここはどこか」「いつ撮影されたのか」の「事実」です。
 はじめの研究では、場所はセロ・ムリアーノ村で兵士はフェデリコ・ボレル・ガルシアだとされていました。しかし2009年のスペインでの研究で、セロ・ムリアーノ村から48km南のエスポホ村であることが特定されました。そして、9月始めにエスポホで戦闘は行われていませんでした。では、やはりあの写真は「やらせ」?
 ここで一端私は本を置きます。山の稜線などから場所は特定されました。しかし、「戦争写真」を撮影したいキャパが、なぜ戦闘がない村にいたのでしょう? 彼は常に「戦闘がある」という噂を聞くとすぐにそこに駆けつけています。それが、戦闘がないところにわざわざ行く理由は?
 熱心な研究者の中には、現地に行って考古学的な手法で調査して古いライフルの薬莢を発見した人もいます。つまりそこで戦闘(あるいは戦闘訓練)が行われた、ということです。では、撮影日はいつで、兵士は誰? そのとき村はどんな状態だった?
 古いプリントから再構成された「物語」はこうなります。二人は村はずれの丘で民兵の訓練を撮影していた。まず「突撃する兵士」の写真、ついで「倒れる兵士」。ただ、どうも迫力に欠けるためもう一回倒れるシーンをやってもらおうとしたところに突然の銃声。キャパが反射的にシャッターを押して撮影されたのが「崩れ落ちる兵士」。
 この「物語」を構成するために、『崩れ落ちる兵士』の写真だけではなくて、その前後に撮影された写真を細かく調べ、風景(どこか)や写された人(誰か)、撮影のアングル(撮影者はキャパかゲルダか)、使われたカメラ(ライカかローライ・フレックスか)、プリントの画質の分析(どこでプリントされたか)、写真の兵士が生きているか死んでいるか、などが詳細に検討されています。まるで殺人事件の捜査過程のようですが、それによって意外なほど「過去」が生き生きと蘇ってきます。この過程は、よくできた推理小説を読むようにわくわくした気分にさせてくれます。そして得られた「結論」は、意外な、しかし(キャパやゲルダがこの写真について明確に語ることを避け続けた理由も含めて)納得できるものでした。二人はこの兵士の死に責任があると感じていたのでしょう。
 ただし私自身は「写真がやらせかどうか」はそれほど気になりません。「写真によって戦争の“真実"がこちらの心に届くかどうか」は気になりますが。そして『崩れ落ちる兵士』の写真もまた「戦争の残酷さ」を私たちに伝えているのです。


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