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2020年06月03日19:49

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「20年史」以後の新潟交通から(第4回・70年代前半後編)

前編からの続きです。

【市内均一運賃区域の変更】
1970年4月12日実施の運賃改訂では、新潟市内の均一運賃区域が変更されました。
その基準について、「均一地帯の区域を市街の中心(新潟市の場合、古町)より、半径3キロ内で、かつ系統キロ4.0〜4.2キロ」として全国的に統一したと記されています。

これにより、以下の区間が新たに均一運賃区域に含まれました。
・競馬町(現・信濃町)〜文京町
・競馬町〜有明台
・南高校前〜日本軽金属前(現・県庁前)
・南高校前〜女池(現・女池桜木町)
・鳥屋野連絡所(現・鳥屋野十字路)〜上所小学校前〜上所島(現・ユニゾンプラザ前)
・鳥屋野連絡所〜鐙
・花園町(廃止)〜笹口(現・笹口二丁目)
・沼垂上三ノ丁(現・蒲原町)〜山木戸
・沼垂上三ノ丁〜山木戸五丁目
・沼垂上三ノ丁〜紫竹
・長者町南〜大山二丁目
・長者町北(廃止)〜大山二丁目

一方、これまで均一区域内だった北葉町〜臨港二丁目の間は対キロ区間に変更されました。以降、「前乗り後降り・運賃先払い」方式を導入する市内線にあって、臨港二丁目発着の系統だけが「後乗り前降り・運賃後払い」方式で均一区域外まで運行されるスタイルをとり続けました。子供時代、このスタイルを「謎」に思っていたのですが、もとは全区間均一区域内だったことの名残だったようで…。

なお、この改訂時点で均一運賃は30円、初乗りは20円、基準賃率7円でした。



【ワンマン化に伴う長距離路線の分断)
1970年代前半において、一般路線ではワンマン化が急速に進められました。
その一環として、長距離路線を分断する動きもまた進められました。
業務効率の改善や、モータリゼーションに伴う定時性の悪化なども分断の要因に含まれているのかもしれません。

主要な路線の分断状況は以下の通りです。
・1967年4月1日、新潟〜沢海〜五泉線を新津で分断。
・1970年4月12日、新潟〜新発田〜月岡・菅谷・大友の各線を新発田で分断。
・1971年4月6日、新潟〜水原〜津川線と新潟〜水原〜笹岡〜村杉線を水原で分断。
・1971年8月26日、新潟〜二本木〜加茂線を新津で分断。また新潟〜小須戸〜加茂、新潟〜小須戸〜庄瀬〜加茂、新潟〜小須戸〜横場〜三条線をいずれも小須戸で分断。
・1971年11月7日、新潟〜新津〜五泉線の急行を廃止し、新津〜矢代田・臼井〜白根〜巻〜間手橋線を白根で分断。
・1972年12月19日、新潟〜築地〜中条〜鷹ノ巣線と新潟〜築地〜村上線をいずれも中条で分断。
・1973年10月1日、五泉〜保田〜村杉線を保田で、燕〜小須戸〜新津線を小須戸でそれぞれ分断。


【ペイント広告車、車内放送テープ、バックアイカメラ、両替機つき運賃箱】
今でこそ、バスの車体広告といえばフィルムによるラッピング広告。
しかし、以前は塗装によるペイント広告が主流でした。
新潟交通でのペイント広告第1号は、1970年10月16日にデビュー。
広告主は塚野酒造(現・越つかの酒造)で、同社の清酒「代々泉」の文字が目を惹きます。

今や死語になったワンマンバス。
ワンマン運行に欠かせない機器の一つが、車内放送です。
その放送テープが新潟交通に登場したのは、1973年12月でした。
市内線で初採用されたとのこと。
となると、それまでは運転士さんが肉声でバス停ごとにアナウンスしていたのでしょうか。

これもワンマン運行に不可欠の運賃箱。
ワンマン化当初は、運賃箱・両替器とも手動式で、ご記憶の方も多いでしょう。
1972年9月4日からは、両替器つき運賃箱の採用テストが実施。
富士重工製の両替器つき6台・釣銭器つき2台を新潟市内8営業所に各1台ずつ搭載し、定期運行に試験導入しました。このうち両替器つきは、現金と整理券・回数券の投入口が別々で、両替金の受け皿は通路側ではなく前扉側に取り付けられていました。そういえば、おぼろげながらそんな運賃箱を目にした記憶が…。
なお、現金と整理券・回数券の一括投入が可能な運賃箱は、1975年7月3日から試験導入。1978年度の新車から採用されています。

ワンマン化を急速に進めることに貢献したのがバックアイカメラ。
新潟交通では1972年10月16日より、バックアイカメラ搭載車の運行を開始しました。
対象路線は新潟〜大形本町〜津島屋線(現在の大形線【E42】)と、古町〜下山〜新川線(廃止)の2路線。これにより、津島屋線ではダイヤ12回中9回、新川線では10回中3回がワンマン化されることになったそうです。
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