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2020年05月02日10:22

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再説:小泉信三と野呂栄太郎(1)

慶應義塾の出身者であれば、小泉信三先生の名を知らない者はいないだろう。慶應で福澤先生の次に「先生」と呼ぶべき方がいるとすれば、小泉先生以外の名前を挙げるのは、よほどの偏屈者だろう。
では、その小泉信三の「一番弟子」と言ったら誰の名前が挙がるだろうか?

北海道民であれば、名門「北海高校」を知らない者はいないだろう。では、北海中学時代からの歴代卒業生の中で随一の偉人と言えば誰だろう。同校の卒業生の中には政財界人・文化人・スポーツ選手として活躍されている方も多いので、誰か一人を選ぶのは難しいかも知れない。

僕は、この二つの問の共通の答として野呂榮太郎の名前を挙げたい。
野呂は「北海道長沼町に生まれ育ち、旧制北海中学(現北海高等学校)から慶應義塾大学理財科(現在の経済学部)に進む」(wikipediaより)。

野呂の生家は開拓農民。彼は小学校でケガをして片足を切断されるが、学業は優秀で名門!北海道庁立札幌第一中学(一中。後の我が母校・札幌南高)を受験するが不合格となる。翌年も一中を受験するが再び不合格となる。不審に思った父親が調べたところ、なんと当時の札幌一中では「身体の不自由な子供は入学させぬ方針」ということが分かり、野呂が隻脚であるが故に不合格となっていたことが分かる。
当時の「教育」というものは、国民の権利ではなく、有為な人材を育成するという国家事業であったからなのであろう。南高の卒業生は、母校の歴史の中にそういう(身体障碍者は合格させないという)時代があったことを覚えておくべきだろう。

「やむなく」野呂は北海中学に進学する。成績は抜群で、その優秀さは校外にも知られ、卒業時には新聞「北海タイムス」に「北中の秀才、義足の野呂栄太郎君卒業す」という記事が掲載されたほどであった。野呂の後輩になる作家の島木健作は、教師たちが野呂の名を挙げて生徒たちに「模範」として示していたことを証言している。

野呂は東大進学を希望していたが、札幌一中と同じ理由で不合格となると考え、「やむなく」慶應義塾大学に進学する。

慶應では、小泉の教え子で、後に日本共産党の第一書記になる野坂参三が「世界の社会運動」について講義を行っていた。これは、日本における最初期の社会主義運動の紹介であった。野呂はこの講義に影響を受け、社会主義・共産主義について英語・ドイツ語の文献を精読するようになる。

同じ頃、小泉は慶應で「社会思想史」の授業を持ち、自由主義の立場からマルクス経済学について批判的に講義していた。この授業に出た野呂は、マルクスの労働価値説の立場から論争を挑む。小泉は、この反論者に才能を認める。

小泉は、戦後には東宮御教育常時参与として当時の皇太子明仁親王(現在の上皇陛下)の教育の責任者となる。政治的には保守派と言えるだろう。また『共産主義批判の常識』『批判的マルクス入門』などを書き、徹底した終生のアンチ・マルキストだった。これが、一般的な小泉信三のイメージだ。

しかし、意外なことに(あるいは小泉自身の意志には反して実際には)、小泉は日本における共産主義の初期の育成者でもあった。日本共産党の初期の幹部であった前述の野坂など、最初に「共産党宣言」を読んだのは小泉から貸し与えられた英訳版だった。

小泉の学問態度は、批判の対象についても、まずは理論的に徹底的に究明・理解するというものであったようだ。と言うよりも、究明・理解の前に批判があるのではなく、理論的な究明・理解の上に「自説」として批判を打ち立てるというものであったのだろう。
だから、小泉は、共産主義に対する批判の急先鋒であったと同時に、当時の日本における第一級のマルクス経済学の研究者・理解者でもあった。そして、学問と思想を峻別していた。思想的には反対の立場に立つ野呂に対して、公私・物心の両面にわたって師として援助する。

(つづくかも)

■野呂栄太郎と小泉信三
(1) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1529831394&owner_id=2312860
(2) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1530039240&owner_id=2312860
(3) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1531628718&owner_id=2312860
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