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2020年03月28日12:10

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「物自体」論(1)-カントにおける「物自体」と道徳論

(1)課題の設定

次のような文章が、どこかの中学校の国語の入学試験の問題として出されたらしい。

「カントは、われわれが共同体の中で生きるかぎり、互いが互いをたんなる現象の一部ではなく、物自体として扱う可能性をもっているというのですが、それはこうした私たち自身の相互理解の特異な性格に着目するからです。」

中学受験だから、受験者は小学生だ。小学生にカントの「物自体」とは、なかなかの難問だと思う。
この問題文に関して、ある受験生の父親が次のような疑問を記していた。

「このカント理解、正しいですか? カントは他人を手段としてのみではなく目的として扱え、と言っており、この著者もそのことに言及しているようですが、「物自体」という言葉はカントの認識論に出てくるもので、ここで使うのは不適切では?」

冒頭の問題文は『宇宙はなぜ哲学の問題になるか』(2019年・ちくまプライマリー新書)という中高生向けの入門書から引用されたもので(同書p.152)、その筆者は京都大学の伊藤邦武名誉教授だ。
僕は伊藤名誉教授の『ケインズの哲学』(岩波書店)を「熟読」したことがある。それほど突飛な説を唱えるような方ではなく、一般向けの哲学史の概説書なども書かれている方だ。
というわけで、この受験生の父親の疑問に答える形で、カントの道徳論における「物自体」の位置づけについて考えてみたい。

(2)物自体とは

まずは、カントにおける「物自体」という概念について明確にしておかなければならない。その認識論的な説明は、カントの第一批判『純粋理性批判』と『プロレゴメナ』の中にあるのだが、その説明はなかなかに「錯綜」していて、単なる引用では分かりやすくまとめる自信がない。そのため、便宜的に『岩波 哲学・思想辞典』の「物自体」の項から引用することで済ませたい。

「『純粋理性批判』の超越的感性論において、空間と時間が我々の直観の形式であることが明らかにされ、それを通じて感性的直観の対象に対して現象という規定が与えられることによって、「現象するものなしに現象があることは辻褄が合わない」として、物自体が導入されるのである。したがって、物自体とは、この定義上、感性を必須の要件とする我々の認識の対象とはなり得ないものを意味する。」

つまり、「現象の根底に存するもの、ないし、現象の根拠」とされながら「我々が認識できないもの」。これが即ち、カントの「認識論」(ある意味では「存在論」でもあると僕は思う)における「物自体」である。

(3)カントの道徳法則

次にカントの『人倫の形而上学の基礎づけ』(旧訳名「道徳形而上学原論」、以下「基礎づけ」と略記)と第二批判『実践理性批判』(以下「実践理性」と略記)における道徳法則を引用する。

「君の意志の格率[行動指針]が、つねに同時に普遍的立法の原理として通用することができるように行為しなさい。」
(「実践理性」岩波全集p.165、A30、第40節)

「人間は、ましてや理性的存在者は誰であろうと、それ自身が目的自体として実存するのであり、ただあれこれの意志が任意に使用する手段としてだけ実存するのではなく、むしろ自分のすべての行為において、その行為が自分自身に向けられる場合も他の理性的存在者に向けられる場合も、いつでも同時に目的として見なされなければならない。」
(「基礎づけ」岩波全集p.64、A428)

「自分の人格のうちにも、他の誰の人格のうちにもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段としてだけ必要としないように、行為しなさい。」
(「基礎づけ」岩波全集p.65、A429「実践的命法」)

(4)カントの道徳論における物自体の位置付け

以上のような引用文だけ見ると、カントの「物自体」は、彼の道徳論と関連しないように見える。しかし、実際には、「物自体」という概念は、カントの道徳論と深く関連する。また、関連するだけではなく、「物自体」はカントの道徳論を礎石であるとさえ言える。その論法を僕なりに単純化して記してみると次のようになる。

(A-1)人間は、何ゆえに目的それ自体とされるのか。
それは、人間などの理性的被造物は自由であり、その意志の自律ゆえに神聖な道徳法則の主体であるからである。

(B-1)人間は何ゆえに自由であり意志の自律を有するのか。
人間は、感性界に属する者、すなわち「現象」としては機械的な必然に制約されている。しかし、叡智界(=悟性界)に属する者、すなわち「物自体」としては感性的な因果性に制約されず、自由であり、また意志の自律を有する。

(C-1)ゆえに、人間の道徳的主体としての尊厳、人間が目的そのものとされる理由は、人間の「物自体」としての存在(あり方)に由来する。「物自体」の概念は、カントの道徳哲学の基礎をなすものである。

(5)カントの道徳論からの引用

以上のような論法は、カント自身の著作の中から読み取ることが出来るかどうか。以下に、カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』と『実践理性批判』の中から、関連する部分を引用する。

(A-2-1)
「人間はたしかに神聖どころではないもいいところだが、しかしそれでもかれの人格における人間性は、かれにとって神聖でなければならない。被造物全体のうちで、人間が欲したり、何か意のままにしたりできるものはすべて、たんに手段として用いることができる。とはいえ、人間のみは、そして人間とともにあらゆる理性的被造物は目的それ自体である。すなわち人間はみずからの自由の自律のゆえに神聖な道徳法則の主体である。」
(「実践理性」岩波全集p.250、A87、第129節)

(A-2-2)
「意志の自律は、あらゆる道徳法則と、それらにかなった義務との唯一無二の原理にほかならない。」
(「実践理性」岩波全集p.169〜170、A33、第44節)

(B-2-1)
「感性界に属するものとしてはつねに感性的に制約されている、すなわち機械的に必然である行為が、しかしそれでもまた同時に、叡智界[知性界]に属するかぎりでの行為する[存在]者の因果性に属するものとしては、感性的に制約されない因果性を根底にもつ、したがって自由であると考えることができる」
(「実践理性」岩波全集p.274、A104、第149節)

(B-2-2)
「自由をなお救おうとすれば、残された道は、時間のうちで決定可能なかぎりでの事物の[現]存在を、したがってまた自然必然性の法則にしたがう因果性をもっぱら現象に帰し、自由をしかし物自体そのものとしての[存在]者に帰する以外にない。」
(「実践理性」岩波全集p.261、A95、第140節)

(C-2-1)
「定言的命法が可能なのは、自由の理念が私を叡智的世界というものの一成員とするからということになる。」
(「基礎づけ」岩波全集p.101、A454、第143節)

「自由」と「意志の自律」を軸として、カントの道徳論(定言的命法)は、物自体の概念と関連づけられている。というよりも、物自体という概念が無ければ、自由も意志の自律も説明することが出来ず、ゆえにカントの道徳論も砂上の楼閣、あるいは単なる「独断論」となってしまう。

確かに、カントは定言的命法を説明するにあたって、直接には「物自体」という言葉を使っていない。しかし、カントの論法を丹念に追えば、「定言的命法が可能なのは」「私が物自体であるからだ」と言える。即ち、「物自体」という概念は、カントの道徳論の礎石でもあるのだ。

【凡例】
『人倫の形而上学の基礎づけ』および『実践理性批判』からの引用訳文は岩波書店版「カント全集7」(2000年刊)により、(実践理性、岩波全集p.169、A33、第44節)などと引用箇所を示す。これは、「岩波書店版全集・第7巻の169ページ目」「原書アカデミー版の33ページ目」「光文社古典新訳文庫版の第44節」に引用箇所があることを示す。

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