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2020年01月29日19:01

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遥かなる東洋−井筒俊彦を読む(01)

井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)のうち「本質直観」以外を読み終えました。
印象としての第一は、「東洋は遠い」ということです。

新渡戸の『武士道』を読んだ時にも、「自分は日本人なのだろうか」という疑問を持ちました。と言うのは、新渡戸は日本的精神の弁護士を自認していましたが、その時に自分は、被告でも原告でもなく、傍聴人のような気分を味わったからです。
今回も、「精神的東洋を索めて」という副題を持つこの本を読んで、「自分は東洋人なのだろうか」「自分の精神の深層に果たして東洋的なものはあるのだろうか」と考えてしまいました。その意味で、「己を知らない」ことを改めて痛感させられた読書でした。

東洋思想の中では、「老子」には比較的若い頃から親しんでいたつもりでした。また、禅、特に道元の『正法眼蔵』には興味を持っていて、『正法眼蔵随問記』は何度か読んだことがあります。しかし、それらを読んで「分かりかけてきた」と思っていた気分を一気に粉砕されてしまいました(笑)。

井筒が論じているような水準のことは、まったく理解できていなかった。と言うよりも、東洋思想を「理解する」ということがどういうことなのか、ますます分からなくなったというのが実感です。

思想というものについて、抽象的な思考能力があれば(高ければ)「理解できる」という考え方そのものが間違いなのでしょう。文字通り「修行が足りない」ということなのでしょうか。そもそも、坐禅すらしていないのですから、修行としては「無」としか言えないような人間が、例えば「禅」といった東洋思想をを理解できると思うのが間違いなのかも知れません。

井筒が描く「東洋的精神」は、西洋近代哲学の知性(悟性)が認識(理解)するということとは別な仕方でしか分からないものなのかも知れない。それは「分かる」というよりは「悟る」ものであり、「理解する」というよりは「会得する」ものなのかも知れない。などとも考えてみました。

(1)「本質」を肯定する思想と否定する思想がある。
(2)本質否定論(無「本質」主義)の典型は、「禅」である。
(3)本質を肯定する思想には3種類がある。
(4)本質実在論の第一の典型は朱子の「理学」である。
(5)本質実在論の第二(元型的「本質」論)はシャーマニズム的なものであり、老荘、易、空海、カッバラーなどの思想に見られる。
(6)第三は、普遍的「本質」の外在的実在性を信じる人たちの立場であり、プラトンの「イデア論」や孔子の「正名論」などがある。

などといったように井筒の書いていることを「整理する」ことは可能です。
しかし、そのように整理できたとして、それは「理解」の助けにはなるかも知れませんが、「会得」にはほど遠いように感じられました。

もうひとつ、井筒の著作を読んでいて思ったのは「神秘主義」についてなのですが、その話はいずれ。

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