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「気ばらし。−−人間は、死、悲惨、無知をいやすことができなかったので、自己を幸福にするために、それらをあえて考えないように工夫した。」
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「 それらの悲惨にもかかわらず、人間は幸福でありたいと思う。幸福でありたいとしか思わないし、またそう思わずにはいられない。だが、それにはどうしたらいいであろうか? それをなしとげるためには、人間は自ら不死にならなければならないであろう。だが、それはできないことなので、彼は死や悲惨をあえて考えないように工夫した。」
松浪信三郎訳・パスカル『パンセ(上)』(河出文庫・1955年)より
節(断章)の番号は、ブランシュヴィッック版による。
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パスカルの「パンセ」は、高校生のときに通読した記憶がある。
多分、松浪信三郎訳の『定本パンセ(上)(下)』(講談社文庫)を読んだはずだ。読んでいて、それほど難しいとは感じなかったような気がする。「クレオパトラの鼻」や「人間は一本の葦に過ぎない」というような名言(?)に出会ったときには、それなりに感慨があったし、信仰を「賭け」とする論述は面白いと感じた。
今、そのときに読んだ本は、手元にはない。
先日、吉祥寺の古書店「よみた屋」に行ったら、廉価文庫のコーナーに松浪信三郎訳の『パンセ』が上下各50円で売っていた。併せて100円(税込み)で買ってみた。もっとも、これは講談社文庫の「定本」ではなく、河出文庫版。この版の「パンセ」があることは知らなかった。
紙は茶色くなっているが、造本が糸綴じなので、電車内で片手で読むときにも便利だ。すらすらと第3章(全体の四分の一ほど)まで読み進んだ。
今回、特に気になったのは、パスカルが「死」との兼ね合いで「気晴らし」について論じていたことだ。
これは、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』のテーマだったなぁと思って同書を開いてみたら、やはりパスカルについても論じられていた。
パスカルの言葉から考えると、「気晴らしに逃げることなく、死を直視せよ。それが人間の本来的な姿だ」と言ったのがハイデガーだと言えるような気がしてきた。なるほど、パスカルとハイデガーの関連については、今まであまり考えてきたことがなかったが、ひとつのつながりが見えてきたような気がする。
この点、もう少し踏み込んで考えてみたい。いつか(笑)。
◆読み始め-『暇と退屈の倫理学』(0)(2018年07月19日)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1967538208&owner_id=2312860
◆ハイデガー『存在と時間』note
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=600486595&owner_id=2312860
◆近代哲学(ヒューム、カントなど)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=798401144&owner_id=2312860
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