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2019年01月17日11:44

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阪神淡路大震災から24年

友達に思い出話を書きました。それをそのまま引用します。

今日は阪神淡路大震災から24年目の日ですね。あれから24年です。24年ということは干支は一回りなので今年と同じ干支ということですね。僕は今年が年男です。あの年も年男だったのか。

36歳になる年の1月17日。まだ僕は35歳だったです。

去年も書いたけどあの震災の時、僕はハノイにいました。そのニュースはちょうど訪問していた三菱商事の事務所で教えられた。三菱商事事務所ではCNNかBBCを放映していました。

妻と母に電話をした。東京はなにもなかったですね。

僕の年代は簡単に転職をすることはダメだと言う価値観だったです。今とは全く違う社会だった。会社はいわば永遠に続くのだと。そこで働き続けることが正しいのだと言う価値観があった。

僕は2回転職しています。最初に入った海洋油田掘削会社はいい会社だったけど、事務系社員の出世の道が限られていたので辞めました。僕は東南アジアで働きたかった。その夢はその掘削会社で叶えられた。ジャカルタ駐在員になれましたから。
でもその後の出世に夢がないと思って退職しました。

それから建設業界の専門業の会社に入社しました。でも海外で働く夢が諦めきれずにそこも2年で辞めました。

けっこう周囲の人からは無茶苦茶批判されましたね。世の中そんなに甘いもんじゃないと。自分の希望の仕事に就けるかどうかは長く続けなくては無理なんだと言われました。

そして業界50位くらいの会社だった福田組に転職しました。ここは海外事業部を発足させてばかりで、その事業部の社員として雇ってくれたからです。

学習院大学のラグビー部を出ていればとりあえず大手の会社に就職できます。建設会社だっていわゆるスーパーゼネコンに入社できます。僕は業界50位の会社に転職した。なんとなくOB会などでは肩身の狭い思いをしました。僕がそう思っていただけで回りは全く気にしていなかったかも知れませんが。

福田組で僕は働きました。社長のお供でバンコク出張にも行った。周りからはカバン持ちと馬鹿にされたけれど、社長に認めてもらうためにはかばん持ちで上等です。

福田組に入社して3年目。ロスアンゼルスへ転勤しました。不動産投資をしていた現地法人が赤字になって、なんとかせいという指令だった。結局この法人をクローズすることになりました。

そして僕は新しく開所するハノイ事務所の所長で赴任することになった。ロスアンゼルスからハノイへ横滑り人事です。

34歳でアメリカ現地法人の社長です。35歳の時はハノイ事務所のゼネラルマネージャーとなりました。
今思うと若い僕に良く任せてくれたなと思います。そういう意味では福田組に本当に感謝しております。

周りからは批判されたけど結果として僕は自分がやりたい立場に就くことができた。良かったと思います。

ラグビーが出てきません。
35歳の僕はハノイでドラゴンズと出会いました。

ザンボー通りの展示会場の横にドンドホテルというのがあって、そこの屋上にノルウェー人が経営するバーがあったのです。オープンエアのバー。サンセットバーだったかな。

そこの掲示板にドラゴンズでラグビーやろうと言う張り紙があった。僕は翌日代表のトニーに電話をしました。

「僕は35歳だけど一緒にプレーしてもいいかな」
「なにを言っているんだい。50歳のプレイヤーもいるよ」

ドラゴンズは出来立てほやほやだった。初めてのゲッコーズとの定期戦はハノイの当時の国立競技場で行われました。
ゲッコーズには日本人はいなかった。

リータンキエットにザ・パブという店ができていて、試合後はそこで飲みました。まだタイガービールの生はなかった。

その翌年の1996年のドラゴンズ年間最優秀選手は僕です。

あの頃の僕は元気だったなと思います。今はぎっくり腰だわ五十肩に六十でなるわで大変です。

それでも申し訳ないほどに充実しています。

学生時代の僕は毎日が憂鬱だった。でも充実していた。
今は憂鬱ではないです。そして充実している。肩は痛いですけど。

阪神淡路大震災で犠牲になられた方々のご冥福を祈ります。

浅山雄二


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