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2020年02月26日01:38

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京響 レニングラード

2020年1月19日(日)

 京都市交響楽団 第641回定期演奏会

[指揮]ジョン・アクセルロッド
[フルート]アンドレアス・ブラウ

ベートーヴェン:「アテネの廃墟」op.113から序曲
バーンスタイン:「ハリル」独奏フルートと弦楽オーケストラ、打楽器のためのノクターン
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調「レニングラード」op.60

もう一ヶ月以上過ぎてしまったが、備忘録。
まず、最初のベートーヴェンは、耳慣らしといった感じにしか思ってなかったけど、どうやら違ったようだ。後の2曲が戦争に関連する曲なので、今回のプロ的にはなくてもいいじゃないって思ってたんだけど(トルコに滅ぼされたアテネの廃墟なので全く関係がでないわけではないけど)、後で調べてみたらベートーヴェンはこの「アテネの廃墟」を彼の戦争交響曲(ウェリントンの勝利)と一緒にプログラムを組んで演奏したことがあったのだった。その時は、今回の序曲は演奏されず、最後の6、7、8曲目が演奏されたのだか、終曲の8曲目のタイトルは「国王万歳」で、演奏会のクライマックスでも皇帝の肖像画が現れるという演出だったとか。さて、今回のクライマックスはショスタコーヴィチなので、それになぞらえてみると、ナチスドイツに対して人民を勝利に導いた、同士スターリンの肖像は、はたして出てくるのであろうか、っていう仕掛けが隠れていたわけだ。
2曲目、バーンスタインの「ハリル」はフルート協奏曲みたいな曲。戦死したイスラエルの若いフルーティストと彼の同胞たちに捧げられているが、今回改めて聴いてみて、フルートという楽器の音色が、儚さ表現するのにぴったりであることに気づかされた。調性の部分と無調の部分とがごっちゃになった曲だけど、それが死に至った若者の内面を如実に表示している。ブラウさんのフルートはもちろん素晴らしかったが、この曲のコーダはオケの中のピッコロとアルトフルートがソリストを差し置いて延々と演奏する。これがまた素晴らしかった。ディスクで聴いてたぶんにはてっきりソロフルートかと思ってた。ソロフルートは静謐なコーダの最後の最後にだけ音を出して曲を締めくくるのだが、それは決して調性的に解決をもたらさない音だった。その後、ドビュッシーの「シランクス」がソリストのアンコールとして演奏された。このフルーティスト必須の曲も調性感が希薄で、ちょうどよかったのではないだろうか。
さて、休憩の後は大曲「レニングラード」。しかしこの曲の"バカバカしい"表現とはいったい何なんだろう。昨年の年始にこの曲ドキュメンタリーが、玉木宏の案内であった。ナチスドイツに包囲されたレニングラードの悲惨な状況と、その中で書き始めたショスタコーヴィチの意図(彼はその後国家の命令で脱出を余儀なくされ、疎開先で曲を完成させる。初演も疎開先)、そして包囲下での現地初演に至るまでのドラマ、それから、さながらスパイ映画のようにアメリカにもたらされたスコアのマイクロフィルム。アメリカでの初演権争いはゴシップとなり、1942年からその翌年にかけて、なんとアホみたいに62回も演奏された。当時、ナチスを嫌ってアメリカに移住していたバルトークでさえ、あまりにもうんざりしてしまって、彼の最後の名曲「管弦楽のための協奏曲」でパロディーで使うほどだった。そして共産主義者への援助なんてとんでもないといったアメリカ世論が一転、ソ連援助に傾く。たぶんこの曲は人類史上最強のプロパガンダ音楽であろう。
冒頭、弦だけで演奏される人間の主題は、生ぬるくならないようにかなりアクセント強めで弾かれていた。ここはアクセルロッドさんの意図だろう。曲はいったん静まり、まるでラヴェルのボレロのように小太鼓が小さな音でリズムを刻みだす。曲はナチスドイツとの戦線が拡大していくかのようにどんどんクレッシェンドで拡大していく。バンダも精一杯雄叫びをあげ、それは激動というよりは、一種のコメディのようだ。
第二楽章は一転、物悲しい木管の旋律は包囲下のレニングラードの人々を描いのだろうか。しかしここでも途中で暴力的な金管が入ってくる。戦争に振り回されるのいつも市井の人々なのだ。
第三楽章はショスタコーヴィチが書いた一番美しい曲といっても過言ではない、コラール風のアダージョ。悲劇的な曲調でありながら、どこか清冽な明るさがある。いつもは晦渋な感じのショスタコーヴィチが、どうしてここまで清冽な曲を書いたのか。一種のハリボテ感を出すためなのだろうか。それにしても美しい。京響の演奏も素晴しかった。
第四楽章はアタッカで続けて演奏される。ナチスドイツに立ち向かう人民の姿だといえばそうだが、最後のバカバカしい盛り上がり方は何なんだ。後にショスタコーヴィチは、ファシズムだけではなくソ連の全体主義のことも書いたと言っているが、そう受け取ることは、今となっては容易になっている。しかし、実はこれはこうなんですって言ったところで、音楽家としては音楽で納得させなければいけないわけで、まさに音楽的な才能に溢れたショスタコーヴィチが、音楽家として恥じないところを微妙なバランスの上で書き上げたわけだ。残念ながら私には、この曲に何らかの直接的なソ連批判を見出すことはできない。あくまでも曲を聴いた印象からの感想だけだ。でも、最後に舞台にスターリンの肖像画が現れたとしても、コメディでよくあるように、最後の和音の一撃でガタッて傾くのが一番しっくりくるような気がする。祖国を思う気持ちや、人民の力強い歩みへの賛歌は、それはそれで本物なのだ。厳しい戦時下のレニングラード市民にとって、それは絶対必要なことだった。でも、そこにもうひとつ必要とされるべきことを、ショスタコーヴィチは忘れてないと思う。
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