mixiユーザー(id:22841595)

2020年02月16日23:15

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悪くないぞ、カラヤン!みんなが言うほど悪くない!

 前回のようなことを書くと、私はさぞかしアンチ・カラヤンなのではないかと思われたかもしれません。
 確かに、前回書いたとおり、私はカラヤンはヒトとしては最低だと思いますし、アンチ・カラヤンの人達の中には、そこからさらに進んで、カラヤンの音楽は大嫌いという人が少なくありません。やれ精神性に乏しいの、やれ商業主義に堕したのなどとぼろ糞に言ってます。
 でも、何の予備知識も与えられずにいきなり曲の演奏だけ聴いて精神性とか商業主義とかが見えてくるものなんでしょうか? 不勉強なのかもしれませんが、私には見えません(演奏者によっては、引き締まった音とか、一生懸命の演奏かどうかは感じることがありますが)。
 私は、カラヤンの音楽的才能は認めているつもりです(「少しばかり」ではありますが)。前回の日記に掲載した動画にしても、演奏自体はそんなに悪いものではないです。
 ドイツ文学者・音楽評論家の許光俊(きょみつとし)氏は、音楽家としてのカラヤンについて次のように論じていますが、私はその多くに共感します。

 カラヤンはじつに有能な人であった。なんて、生前はナメクジかヒトデかコバンザメかというくらいに彼を嫌っていた吾輩が見直しているのは、近頃無能な人の演奏ばかりを聴いているからなのだ。昨今のベルリン・フィルの演奏といったら、奏者がやりたい放題の快楽地獄で、音楽の統一感が実に希薄ではないか。それに比べて、カラヤンのマーラーなど、発表当時は「こんなに表面的に美しく仕上げてあるなんて、苦悩の人マーラーの音楽じゃない!」と毀誉褒貶(きよほうへん)があったものだが、今となっては、こんなにオーケストラをまとめる腕前の指揮者はほとんど皆無になってしまった。いかに彼が金儲けの鬼であったにしても、オーケストラの操縦士としての腕前まで認めないのは意固地もいいところだ。
(中略)
 (カラヤンは)徹底的な一流主義だった。演奏する作品は評価の定まったものばかりだし、指揮する楽団は、ベルリン、ウィーン、スカラだけ、そのうえ、自分の思い通りになる音楽祭を主催し、表向きは自己の芸術的信念に忠実な男をアピールしていた。たとえていうなら、カラヤンは高級ホテルの高級料理。材料は高級、レシピはスタンダードな料理ばかり、給仕人はホテルマンらしくびしっとして丁寧なサービスを心がけ、もちろん値段はめっぽう高い……という。しかし、ホテルの料理は退屈だ。万人に嫌われない味をめざすために、個性的料理人が霊感を働かせる余地などないのである。
 カラヤンはあれだけの活躍にもかかわらず、作品のすごさを徹底して見直させるような演奏などしなかった。再現芸術家としての痛みも歓びも示さなかった。わかりやすい感覚的な快楽をタップリと持つゆえに、もっと高級なおもしろさを欠いていた。曲の知的な構成や、少数者しかわからないような感覚的な繊細さとか、大胆な読みとか……。しかし、世の中、最高に複雑で繊細なものだけあればよいということはない。ほどほどのものを求める大衆の需要は常に存在している。
            (洋泉社MOOK/「クラシック名盤&裏名盤ガイド」P183)

 そう、ほどほどのものであっても、それなりに才能は要求されるものなのです。でも、ほどほどのものでしかないのに「帝王」として自分を演出するから嫌われるんですよね。

 なお、タイトルは、カラヤンとクレンペラーとの次のようなエピソードから取りました。

 ウィーン国立歌劇場でカラヤンがモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を指揮したとき、観客席にいたクレンペラーがいきなり「悪くないぞ、カラヤン!みんなが言うほど悪くない!」と叫び、会場は大爆笑。演奏の緊張感をぶち壊されたカラヤンは終生クレンペラーのことを許さなかったという。
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