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2019年12月14日00:01

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髭の伊之助 

 もう10日ほどすると、サンタクロースのお仕事が本番を迎えますが、今日は、以前こちらの日記(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1957576000&owner_id=22841595)でご紹介した下掲パペットアニメーション『サンタが街にやってくる―サンタクロースの秘密』(ランキン・バス・プロダクション製作 日本人も携わっているようです)が49年前、初めて米国ABCで放送された日です(以後、今も毎年クリスマスシーズンに放送されているとのことです)。
https://www.youtube.com/watch?v=BVAc0FJdYoA

 その日記でも触れたとおり、このパペットアニメでは、子どもたちがサンタクロースに持ちがちな疑問について、ひとつひとつ答えているのですが、”なぜサンタさんは髭を生やしているの?”という疑問にも答えています(49:49あたりから)。
 
 ところで、サンタさんのようにお尋ね者になったわけではありませんが、相撲界にも、かつてサンタさん並みに見事な髭を生やした行司さんがいました。
 第十九代の式守伊之助です。
https://www.youtube.com/watch?v=491g-qeB3tk

 私が生まれたときには、この人はすでに引退されていましたので、私はこの人の現役時代に直接接することはできなかったのですが、以前こちらの日記(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1970000924&owner_id=22841595)で触れた「相撲一口メモ」では、遺された画像・動画と共に頻繁に出てきたので、個人的には見たような気になっています。
 本名、高橋金太郎のこの人が、髭を伸ばし始めたのは、病気療養中に興味本位でやったことのようですが、その後そり落とすと体調を崩すことが多かったので、相撲協会から伸ばすことを許されたということです。協会公認の由緒ある髭だったというわけです。
 まだビデオによる勝負の確認が導入される前の時代において、この人は若い頃から、微妙な勝負でも「廻しうちわ」などせずに瞬時に正しい判定を下す名行事として評価が高かったのですが、時々茶目っ気たっぷりなドジをふみ、人々から愛されていたようです。
 例えば、初土俵間もない頃、序ノ口の取組、尼ノ里‐越の川戦で「あまがえるとこしかけ」と間違えて叫んでしまい周囲をヤキモキさせたと云われています。
 また、土俵上で力士の名前を忘れてしまい「お前さんでござい〜」と勝ち名乗りを上げたこともありました。
 おまけに、三役格時代にも鏡里‐玉ノ海戦で鏡里が勝ったのに「玉ノ海!」と言ってしまい、咄嗟に「……に勝ったる鏡里」と言ってごまかしたというきわどい話まで遺っています。
 さらに、木村庄三郎を襲名していた時代には、歌舞伎の七代目坂東三津五郎を訪ねたときにもらったツギ足(足袋のかかと部分にはめるゴム製のもの)で背を高く見せようと(身長152cmでした)足袋を上げ底にしたところ、俵に引っかかって土俵下まで転落してしまったということもありました。
 まぁ、いずれも行事としてあってはならないことではあるのですが、どこか憎めない可愛らしさがあり、直接勝負の判定に響いたわけでもないし、勝負の判定そのものについては、上述のとおり、並みの行事よりもはるかに優れた仕事をしていたわけですから、なんとなく許されたんでしょうね。協会が(他の行司には認めていなかった)髭をこの人には特別に公認したウラにも似たような事情があったのかもしれません。
 協会だけでなく、この人が人々から愛されていたことを物語るエピソードは幾つもあり、例えば、俳人の久保田万太郎の詠んだ句には「初場所や かの伊之助の 白き髭」というのがありますし、伊之助が引退したときには、博多人形師の小島与一が一尺大(30cm強)の伊之助人形をつくって、伊之助に贈ったそうです。
 上掲動画(2:06まで)で採り上げられているのは、その引退直前の二つの出来事です。
 一つは、1958年九月場所初日の北の洋‐栃錦戦で、北の洋が両差しで土俵際まで寄り詰めたところ栃錦が突き落として同時に倒れたときのものです。
 伊之助は栃錦に軍配を上げましたが、物言いがつきました。その結果、攻め込んでいた北の洋の勝ちと判定されたのですが、伊之助は、土俵をたたいて「北の洋の右肘が早く落ちたんだ」と10数分も抗議を続けたため、出場停止処分を受けてしまいます。
 伊之助は行司部屋に引き上げてからも「栃関のほうが遅く落ちた。わたしゃ自分の意向にそわぬうちわはあげたくねえ」と涙を流して訴えたそうです。各新聞社が撮った写真によると、確かに北の洋の右肘の方が早く落ちており、「伊之助涙の抗議」として世間の同情を集めました。そのためもあったのか、当初は九月場所中出場停止だったのが、14日目から再出場を許されています。
 もう一つは、同年の十一月場所(引退した場所)の際、所属する立浪部屋の新大関で自らスカウトした若羽黒が初優勝したときの優勝を決めた一番です(勝ち名乗りを伊之助が挙げ、震える手で若羽黒に懸賞を授けたということなのですが、肝心のその場面が映ってませんね)。
 こうして伊之助は72歳で引退したわけですが、これは歴代立行司の最高齢記録であり、1960年一月場所からは停年制が実施されたため(65歳で停年)、今後もこの記録が破られる可能性はありません。

 今日は、髭の伊之助こと第19代式守伊之助の53回目の命日でもあります。
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