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2020年05月14日09:29

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黄砂届くmixi日記23

「善きもの」になるのは難しい。

善きもの、のセオリーが多岐にわたるからだ。
善きものにならんと日々努力してゐるが、なかなか遠き道のりである。

全てを二部する訳でもないが、物事には「善き」部分と「悪しき」部分がある。
これが鍵となりさうだ。
よーするに「悪しき部分」を回避してゆけば、善きものになれるのではないか?。

以前、こんな事があった。
とある由緒ある場所で開かれたイベントにライヴのゲストで招かれた。
イベントの始めに主催者からの挨拶があり、次に、どーやらこの場を提唱した かなんかの「名士」らしき人が壇上に上がった。周りの人間が上げ奉ってゐるのが一目でわかるかんぢだった。
その御仁は、壇上に立つなりかう云った。

『おい、こんなガラガラのところで私に喋らせるのか?!。もっと人を連れて来い!。受付にゐる高校生やらも集めろ!。君らも会場に座れ!』

私は一瞬 唖然としたが、関係者は『おぉそれはごもっとも!』みたいなかんぢでワタワタと会場を右往左往し、人を集めてきた。
ぞろぞろと会場に人が揃ったところで、御仁は演説をぶり始めたが、その内容は単に説教であった。自分は空手を長年やってゐて云々、後輩には誰それ(著名人)がゐて云々、伝統といふものは云々、やる気といふものは云々、

その御仁を見て私は当然たいへんな不快感を覚えたのだが、『あー体育会系のいちばん悪しき部分で出来てゐる人なんだなぁ』とも思った。

おおらか、頑健、豪快、真剣、仲間思い

そは裏を返せば

粗野、傲慢、傍若無人、下品、内輪自慢、

にすぎない。

考へてみればこれは「男性」の、悪しき部分そのものだ。
私はお笑い芸人の中で「とんねるず」がどうしても好きになれないのだが、そは彼らの「笑いのネタ」が全てこれだからである。
よぅするに子供と同じなのだ。
子供を笑ってゐるのと同じ感覚を、私は好きになれない。

この表裏一体の「悪しき部分」を「善き部分」に昇華すれば、とりあへず「紳士」と呼んでもらへる初老になれるのではないか、と思った。

そして、ものごとの「悪しき部分」を回避してゆけば、このツラい人生を、少しは朗らかに生きて行けるのではないか、と思ふのであった。




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