以前にも言及したが、再び「自由律俳句(または自由律句)」について少し語りたい。
例えばせきしろ氏と又吉直樹氏の共著(第一句集)「カキフライが無いなら来なかった」幻冬舎であるが、優れた句もある。出鱈目にページを開いて54p
桜の花びら踏んでも音はしない せきしろ
55p
蝉の羽に名前を書いて空に放した 又吉直樹
いや、実に味わい深い佳い句だと思う。
だがまた例えば夭折の自由律俳人、住宅顕信(1961~1987)の唯一の句集「未完成」春陽堂から引用したい。71p
あさり、うっかり閉じ忘れた口をとじる 住宅顕信
病院食の朝食の味噌汁なのだろうか、ホッコリとした日常のひとこまが描かれているのかと思いきや生と死という主題が隠されていることに気付く。
せきしろ氏又吉氏は言うなれば「切羽詰まって」いないのだ。だから句の表現も「おっとり」している。「のほほん」と言ってもよい。余裕があり過ぎるのだ。
ここに「俳人」と「俳句を作る素人」の違いが表れていると思うのは私だけだろうか。
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