カニエ・ウエストがゴスペル・アルバムを制作していると聞いて、もはや驚く人は誰もいないだろう。
カニエは初期のヒット曲“ジーザス・ウォークス”のころからゴスペルとラップの融合を試みていたし、そもそも『
イーザス』以降のすべてのアルバムが何かしら神への言及がモチーフになっていると言っても過言ではない。
だが今回はマジのようで、合唱団とゴスペルを奏でるイベント「サンデーサービス」の巡回を始めたり、「ラップは悪魔の音楽。これからは世俗的な音楽は辞めてゴスペルだけ作る」と発言している(いつもの虚言癖だと思うけれど)。
そしてリリースされた、その名も『ジーザス・イズ・キング』(まんまやないか)はいつもの露悪的なワードが完全消滅。その代わりに聖書の言葉を引用するなど、主にリリック面でゴスペルへの傾倒が試みられている。
ただ音楽的な内容という意味では、たしかに随所でゴスペル・クワイアがリッチに響き渡っているものの、同時にラップも遠慮なく飛び込んできて(悪魔の音楽なのでは?)、相変わらずカニエ的なバッド・テイストが所狭しとひしめき合う『
ライフ・オブ・パブロ』の正統進化系だと捉えるのが冷静なリスナーの態度であろう。
だが僕がなにより注目すべきと思ったのは、曲の短さ。27分という全体の尺は前作『
イェ』同様だが、今回は平均して2〜3分前後の曲ばかり。そして曲のイントロ・アウトロのアレンジが異常なくらいそっけなく、ほとんどブツ切りのようにして終わり、そして唐突に次が始まる。本当に脈絡もなくただブツ切りにされるのだ。
細かいディティールの話と思われるかもしれないが、これは本作を語る上で意外と重要なことである。たとえば本来ゴスペルのアルバムとは、クワイアが延々とリフレインされたときの宗教的な開放感、あるいはコール&レスポンスの果てにある一体感をセレブレートするための音楽である。要するに、本作をコンパクト&ブツ切りの構成にしてしまうことによって、ゴスペル的な美点を大きく減じてしまっている。
ただカニエのことなので、サブスプ時代に即した曲作りをおこなっているまでだと主張してくるかもしれない。確かに本作の音楽体験は、ひとつの音楽作品というより、膨大な曲を次から次へとチャネリングしながらつまみ食いしていく感覚に近い。
そもそもヒップホップという音楽自体が、ひとつの曲の中で(音楽的な)起承転結を作りにくいジャンルではあるし、カニエに言わせれば「印象に残るパンチラインだけあれば十分。勿体ぶったヴァースとか作っても飛ばされるんだし。めんどくせ」ということなのかもしれないね。
実際、27分とは到底思えない濃密な音楽体験ができる作品なのは事実。ホント、得も言えぬ凄まじい体験です。
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