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2019年09月25日12:30

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Blackstar/David Bowie

 デヴィッド・ボウイの訃報が知らされたとき、世界中に衝撃を与えたのは、その遺作『ブラックスター』があまりに衝撃的な内容だったからに他ならない。

 通常であれば遺作というのは、みずからの肉体的・精神的衰えを包み隠すかのような、空元気な作品が多いと個人的には感じている。それか、ファンサービスに徹した過去の焼き直しとか。セルフ・リメイクとか。仕方ない、どんな偉人だって死ぬのは怖いし、弱気になってしまうのは当然。

 だが『ブラックスター』は、みずからの死期を真正面から受け止める覚悟があり、明らかに「最期の日」から逆算して作られたような、計算し尽くされたアルバム。むしろ自分が死ぬことすら芸術表現のひとつとして昇華し、「死」そのものを作品のテーマの真ん中に配置している。この潔さ。最後まで表現者たろうとしたボウイに賛辞が寄せられるのは当然のことだと思う。
 その証拠に、“Lazarus”のミュージック・ビデオでは包帯でぐるぐる巻きになったゾンビのようなおぞましい姿を嬉々として演じている(ように見える)。

 なにぶん「死」がテーマなので、ボウイ史上でも屈指のダークなタイトル・トラック“★”から、やたら暗い幕開け。世界の終わりのような不穏なムードに、生気をまるで感じさせない歌声(あえてそうしている)。ところがそんなサウンドに、ブレイクビーツを人力で再現したような超絶ドラミングを乗っけてしまうところにボウイのセンスを感じる。
 このせわしなさは、まるでみずからに残された時間の少なさに焦り、戸惑い、死までのカウントダウンを満身創痍で駆け抜けているかのような、そんな切迫したフィーリングを表現しているかのようだ。

 全体に共通しているのは、マリア・シュナイダー・オーケストラを擁したジャズのサウンドがアブストラクトにフィーチャーされていること。随所で聴かれるフリーキーなジャス・サックスが、とにかくかっこいい。とはいえ、構造としてのジャズではなく、ジャズ由来のサウンドをボウイの楽曲に不器用に当て込めているといった感じで、印象としてそれほどジャズは感じない。

 とは言え、ここ数年のボウイのアルバムではもっとも挑戦的な部類のサウンドなのは確かで、最後の最後まで新しい音楽にチャレンジしている、という事実がボウイの生き様を物語っている。
 おそらく、前作『ザ・ネクスト・デイ』が遺作だったのなら、惜しまれながら亡くなるレジェンドのよくあるケースのひとつで終わっていたかもしれない。そう、『ザ・ネクスト・デイ』はファンに愛される、ファンが望むべき元気なアルバムだった。
 だが『ブラックスター』は人を元気にさせない。むしろ不安にさせる。戸惑わせ、考えさせ、決して拭えない「畏怖」をリスナーに植え付ける。そんなアルバムだ。そして、そんな作品を最後にリリースしてしまうのがデヴィッド・ボウイだ。

R.I.P.
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