誰にだって触れられたくない過去があり、そっと引き出しの奥にしまっておきたいような忌まわしい自分を隠し持っている。多かれ少なかれ、きっと誰もがそうだろう。
だけども、この厳しい社会でたくましく生きていくために、そんな自分をまるでなかったことのように繕って、周囲に溶け込む―――つまりは弱肉強食の世界でサヴァイヴしていくために―――大多数の人々は忌まわしい記憶をなかったことにすることで、すべからく生きている。退屈な毎日をやり過ごしている。
だけど、そうすることもできない社会的弱者、あるいはそれができるほど性格的に狡くはなれない心の優しい人々も少なからず存在する。
スミスはそのような人間のピュアでいたたまれない部分を突如、白日の下に晒し、「君は決して間違っていない」と高らかに宣言する。
その瞬間、世界の光と影が反転する。世間では醜い、汚い、キモい、臭い(言い過ぎ)とバカにされ続けてきた人間に対し、実は君以外のすべての人間が醜くて、そんな醜い世界になじめない君こそが誰よりも美しく、実は尊い存在なんだよ、と気付かせてくれる。控えめに言うのなら、「そう勘違いさせてしまうほど、美しく歪んだ何か」を提供しているのがスミスというバンドであり、単純化するのなら、それこそが彼らの音楽の存在意義なんだと思う。
そんなわけで(どんなわけで?)、スミスの1st『ザ・スミス』を聴いている。暗い。ひたすら暗い…。もはや前述したような「醜い過去」は、とっくにゴミ箱に捨ててしまった薄情な自分のような人間にとっては、中二病の男子が書く「呪いのノート」くらいに残酷でいたたまれないブツである。“ミゼラヴル・ライ”におけるモリッシーの気が触れたかのようなファルセットの絶唱は、まるでいじめられっこが発狂していじめっこを背後から包丁でメッタ刺しにするときのような(笑)、例えようのない狂気に満ちている。
でも、こういうのを聴いていると、神聖かまってちゃんのようなバンドを聴いて涙する若者たちを馬鹿にできないかもしれないって、ちょっと思うんだよね。たとえ、「の子」にモリッシーほどウィットに富んだ奥深いリリックを書けなかったにせよ、あるいはジョニー・マーに匹敵するほど手の凝ったギター・サウンドを生み出せなかったにせよ―――つまり音楽的なブレイクスルーが及ばなかったにせよ―――ファンがその音楽を聴いて歓喜する心理は意外と似たようなものだから。
かまってちゃんを擁護するわけではないけど、スミスのこのデビュー・アルバム『ザ・スミス』に限って言えば、バンドの演奏は(かまってちゃんほどではないにせよ)ひどく荒削りだ。ジョニーのギターは今ほど洗練されていないし、リズム隊もひどく直線的。
絶望的に暗いモリッシーの声にジョニー・マーのカラフルなギターが加わると、なぜか魔法が掛かったように美しくメランコリックなバンド・マジックが生まれてしまう。それこそがスミスの音楽のキモの部分だと僕は思っているけれど、本作はジョニーの力不足ゆえに、ただ単に絶望的に暗いモリの声だけが前面に浮き出てしまっている印象を受ける。
それでも、前述したようなスミス特有のバンド・マジックは、この時点ですでに確立しているし、彼らの音楽を聴いているときに感じるフィーリングの「なんたるか」はまったく目減りしていないとさえ思える。“ディス・チャーミング・マン”からの数曲の流れは、それがスミスの曲であるという前提を差し引いたとしても、普通に美しい。美しすぎる。
要するにここまで来たら、あとは時間の問題。そして彼らの輝かしい功績は、その事実を見事に証明してみせた。
神聖かまってちゃんも、ひょっとしたらひょっとするかもしれない!?(マジ?)
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