ドイツの Mystiker(神秘家、神秘主義者)
エックハルトの重要術語(テクニカルターム)
Abgeschiedenheit
(アップゲシーデンハイト。
中高ドイツ語では abegesheidenheit=アベゲシャイデンハイト)
は
隠逸
という
境涯
(この世に生きてゆく上で置かれている(置かれた)、人それぞれの立場。身の上。境遇。
境界(きょうがい)=精神・感覚の働きによりもたらされる境地。
五官(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)および心の働きにより認識される対象。
六根の対象の、色・声・香・味・触・法の六境を言う(仏語)。)
だ。
そして
我々が住むことになった
古民家で
元々住んでいた人も
Abgeschiedenheiter(隠身(かくれみ)人)
だった。
そもそも
「隠身(かくれみ)」
とは
神話や神道で
「隠された」「見えない形」
あるいは
神の「形而上学的形態」
を意味する。
これを
神ではない生身の人間が実践する
ということは
「世捨て人」
あるいは
「俗世間で求めたりもとめられたりすることの一切」
を
「捨てた人」
でなければ出来ない境涯。
しかし
「あえてそれを行う」
「それ相当の理由」
がある場合
それは
「やむを得ず」
と
「主体的に選び取って」
とを
問わず
常識を越える生き方
となる。
けれども
そういった生き方が
隠「逸」
と
中国で名付けられている限りにおいて
そういった生き方は
「秀逸」
もしくは
「秀逸な人であるが故の隠れた生き方
(「君子は危に近寄らず」な人生の実践)」
であるという認識が
そこにはある。
地位と名誉と財産を
「全部捨てる」
代わりに
「自由を得る」
という生き方は
ある目的の達成のために
それ以外の全部を捨てる
という選択であり
そこには覚悟(強い意志)が必要だ。
私の場合
「自由に純粋に哲学て宗教書を残す」
という目的のために
総(すべ)てを捨てて
ここ(蒜山高原=高天原=神話の国の古民家)に
呼び寄せられたと捉えたい。
そう捉えてこそ
京都大学の図書館を使える環境を捨ててまで
ここに来た
(つまり「京大図書館の書物総てを自由に使えるという環境」を越える)
「意義」を
即ち
「蒜山高原の古民家で Abgeschiedenheit する」という生き方の
「意義」を
見出すことができる。
それ以外の
いかなる目的であっても
(もちろん「健康」が最大の目的であって良いのだけれども
「健康」だけなら)
「自由な精霊の行為の結果としての哲学的宗教」は生まれない。
「健康」に
「生き方」としての「Abgeschiedenheit」が
加わってこそ
「未来創造的な哲学的宗教」は
生まれる(生(な)る)。
為(な)る=行為としての自発。
成(な)る=成果としての自発。
生(な)る=生産としての自発。
これを成すことができる
唯一の「方法」
が
「隠逸」としての「Abgescheidenheit」
それは
「死生」としての「人生」
だ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
そして
「隠逸」「死生」としての「Abgeshiedenheit」という「境涯(境界)」
の具体例としての
「神話の国、蒜山高原の
隠逸の実践形態としての
元戦国大名の子孫が代々住んでいた古民家
で死生すること」
は
マルクスが描いたように
人類全体の社会として現れる
「前」であっても
例えば
「人が結婚する場合に
誰を伴侶と選ぶかによって
その人の人生を左右することがある」
ように
「個々人が自由に
選び取ることのできる
生き方の一つ(生きる方法論)」
と
捉えることができる。
「社会全体を変革すること」
ならば
自分だけではなく
国家の構成員(国民)全体に
影響が及ぶ
が
「自分の人生を
主体的に選んで
実行すること」
なら
「その本人の自由裁量の範囲内」
で
済む。
つまり
「社会の変化を待たずして
あるいは
社会(世界)を変革することを
必要とせず」
自己責任で
誰もが自由に選び取ることができる生き方のスタイル
として捉えられる。
もちろん
現実には
さまざまな障害や困難や苦労や心労が
伴うので
実現は
簡単ではないけれども
「納得のゆく人生」を
「自分自身の責任で」
実現してゆけるのであれば
誰にとっても
やり甲斐のある生き方の選択肢
ではなかろうか。
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最終更新
令和4(2022)年1月21日 5時47分
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