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2020年06月05日16:30

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理想の教育(教育の理想、教育者の理想、理想の教育者)

私が言う「理想の教育」は
私の mixi 日記「哲学者の理想」を前提とする教育。

その教育は
今の教育を否定するのではなく
今の教育だけでは埋められない
間隙(かんげき=隙間=すきま)を
埋める為の教育。

それが
いつも言ってる

(1)宗教原理の獲得法としての「自律性療法」
(2)宗教原理の表現法としての「中動態系文法」
(3)教育原理としての「積極哲学(神話と啓示の哲学)」

これを名付けて

〈自律性無底教育〉。

(1)これまでの研究は「語学」を最大の道具として来た。

   けれども私の〈自律性無底教育〉では
   「悟道」としての「自律性療法」を最大の道具とする。

   なぜならば
   現状の「語学」教育では
   書物の内容読解には有益だが
   コミュニケーションの手段としては対等ではないからだ。

   対等なコミュニケーションは
   「互いに母国語を話し、互いに相手が話す異国語を理解し合う」
   という「前提」の上での会話でなければ成立しないからだ。

   例えばこちらが大阪弁で話しても
   相手が例えばドイツ人で大阪弁を理解しないする気が無いのであれば
   こちらが相手が話すドイツ語を理解しようとしても
   対等なコミュニケーションが成立しないからだ。

   会話は
   互いが同じ言語を話さなければ成立しないと思うのは誤った考え方で
   互いが相手のことを本当に思いやれるのであれば
   お互いが相手の話す母国語を理解しようと努力するのが
   当然でなければならず
   対等なコミュニケーションの前提は
   互いが互いの母国語を話し
   互いに相手の異国語を理解し合うというのが
   本当の意味でのコミュニケーションである。
   (そういう意味では二元論ではコミュニケーションそのものが成立しない。
    理解できない者は暴力や軍事力で制圧するという考え方は
    コミュニケーションを否定する考え方。
    啓示や悟りは
    互いに理性では理解できない者同士の
    コミュニケーションを可能にする
    理性を越えた原理であり
    理性が解決できない問題を解決する原理である。)

   この意味で
   精神障害者の話す
   一見辻褄の合わない会話も
   その精神状態を理解しようと
   本当に思いやりを持って望めば
   了解可能に成るはずのものである
   というのが私の考えである。

   例えば犯罪者の言い分であっても
   犯罪者の身になって考えれば
   犯行の必然性も理解できるはずだ
   というのが私の判断である。

   コミュニケーションの対等性は
   総(すべ)ての領域での判断を変える。

   日本人の間でも
   東北弁や沖縄弁を話す人の意味内容を
   それ以外の方言を話す人は理解しようとすべきである。

   その意味で
   相手のことを理解しようとすれば
   相手の立場(身)になって考える習慣がなければならない。

   宗教原理とは「対当・平等・公平・同等」を悟ることであり
   総ての「不公平・強制・格差・不平等・暴力」を否定する融解の経験であり、
   その上での「慈悲」の修得である。

   「慈悲」は「赦(ゆる)し」であるが
   「放任」や「放置」ではない。
   また「無視」でもない。
   また「無責任」でもない。

   法を犯すもの(犯罪者)や
   規律を破るもの(非行)や
   道徳を冒すもの(不倫、非人道的行為、ハラスメント)などを
   「見て見ぬ振りをすること」ではない。

  かといって「慈悲」は
  刑罰(罰金を含む)を課することではない(裁くことではない)。
 
  なぜなら「刑罰」は
  人が過ちを犯す原因を癒さないからである。

  人間の根本悪は
  神仏の(慈悲や救済の)融解のみが癒しえる。

  理屈で癒せない業(ごう)であっても
  癒されなければならない(でなければ犯行は繰り返されるからだ)。

  これまでの教育は
  宗教原理を教えなかったが

  宗教原理による融解体験を経て
  自我がとろける経験を知っていなければならない。

  自我が無ければ
  むしろ
  統合失調症を発症するリスクがあるけれども

  自我の融解体験を知らなければ
  なんでも自我で理屈を捏(こ)ねようとするばかりで
  論理も自我を守るためにしか使われず
  正しく装ったハラスメントで
  人を傷つけ続けるだけのエゴイストたるのみである。

  宗教原理を教える方法を持たない
  今の教育のままだと
  倫理の意味を履き違えて

  格差(差別)観念に支配されて
  「道徳」と言っても
  「人間を格付けして
   格上の人間に
   格下の人間を
   無条件に服従することを強いる手段」
  としてしか
  機能しなくなってしまう。

  そういう考え方が
  「不覚」や「迷い」であり

  「啓示」や「悟り」は
  本来
  神が総(すべ)ての存在・非存在を含めた
  最高位に位置する超越者
  とは考えるのだけれども
  神以外の総(すべ)ての存在は
  「神の下(もと)の平等」
  と言われているように

  宗教原理は
  絶対同等(対等・平等・公平)観念
  及び
  二元論(勧善懲悪観念)では決して出せない判断としての
  慈悲(救済=癒し)心の新生
  を(理性原理では決して生まれない判断を)
  齎(もたら)す。

  この
  絶対同等観念
  と
  慈悲心
  を
  持つ覚者へと
  導くことが可能な教育の方法が
  なければならない。 

  今の宗教は
  (キリスト教であれ仏教であれイスラム教であれ神道であれ) 
  そういった聖者や覚者を
  生み出しているだろうか。

  宗教原理を
  教育する機関は
  本来は
  宗教施設が担当するのでなければならない。

  なのに
  それができていないのなら
  「教育」が
  それをなさねばならない。 

  ここで注意すべきは
  「教育」は
  「宗派」を教えるのではなく
  「宗教」を教えるのであり
  「宗教原理」の「修得方法」を教え
  総ての人々が
  聖者や覚者と成り得る為の「方法」を
  教えるべきだということ。

  特定の宗派ではなく
  (特定の宗教でもなく)
  宗教総てに共通する原理を
  修得できる方法を
  伝えることができなければならない。

  宗教が
  科学に対して
  優位であるのは

  科学の原理が理性であるのに対して
  宗教の原理は経験である。

  認識の原理は
  理性だけではない。

  理性認識の限界を越える
  認識原理が
  経験だ。

  ところで
  宗教原理の経験は
  哲学の原理が純粋理性であるのと同様に
  純粋経験だ。

  純粋経験は
  意識が生み出さない表象を
  意識に齎(もたら)す。

  意識が生み出し得ない表象とは
  二元論を超越する表象だ。
  論理的矛盾を
  論理的矛盾のままで
  解決する経験だ。

  純粋経験は
  意識が不快に思ったり
  拒絶する領域の奥から
  意識の領域に進入してくる経験なので

  意識の抵抗を越えて
  いかに
  意識の奥
  (と言ってもトラウマではない。
   意識下のトラウマは
   むしろ
   取り省けるように
   治療すべき病根。
   トラウマの治療はしかし
   困難。
   なぜならトラウマは
   既に
   生理的な自動反応(必然的過程)に変化してしまった意識
   だから)
  からの「呼びかけ」を
  捉えるか
  ということの技量が問われる。

  そういう技量は
  技(わざ)というよりも
  自分自身の心のありようを
  素直に受け止めて観察できる心的態度が
  大事だ。

  そういう心的態度を養成するために
  一番良いのが自律性療法。

  能動的注意集中から
  受動的注意集中へ移行し
  最終的には
  受動的受容(絶対無の場所)に入り
  そこに於いてあるもの(於いて働いているもの)を
  判断の主体とする
  判断の方法を修得するのが
  悟道。

(2)そういう宗教原理を獲得できた上で
   中動態を考えると
   中動態系文法
   (中動態と、中動態と対立する意味での能動態、つまり
    受動態と対立する二肢言語における能動態ではなく、
    中動態と対立する能動態と中動態のセット)
   が
   神仏の経験を主体とする言葉であることが
   理解できるようになる。

   中動態とは
   「形式は受動(所相)で、内容が能動(能相)の動詞の態」
   であり

   したがって
   中動態と対立する能動態は
   「形式は能動(能相)で、内容が受動(所相)の動詞の態」

   なので中動態の実例として
   もっとも典型的な動詞は
   「懐(なつ)かれる」。
   (形式所相、内容能相動詞)

   そして
   中動態と対立する(セットの、ワンピースの)能動態として
   もっとも典型的な動詞は
   「懐(なつ)く」。

  (ここから
   二肢言語の能動態で
   もっとも典型的な能動態は
   「懐(なつ)ける」
   これは人が人を格付けし
   格下である相手を
   格上を考えている者に
   服従させる
   使役動詞の典型例。

   使役動詞の使用から
   人間は
   神仏の世界を離脱(逸脱)する。)


(以下、書きかけ、更新中)

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最終更新
令和2(2020)年6月6日 20時07分  
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