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2020年06月02日02:08

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最終在籍年度計画

令和2(2020)年度が
(京大の他の学部や、京大大学院の他の研究科に入学すれば別だが)
京大大学院 教育学研究科 博士後期課程に在籍できる最終年度なので
(年次研究計画書は提出したが)
今年何をするのか、目標を立てて行為しないと、
妻に大きな負担をかけて出してもらう授業料が
無駄になってしまう。

目的は
(実現できるかどうかは別として)
しかしハッキリしている。

1.学位の取得

2.大学院の修了
だ。

これを実現するために
必要な方法を
考えてみたい。

つまり
「実現できる方法」

考えたい。

なぜなら
母の望みであった
「卒業して」
を博士後期課程で
(修士課程では実現したし
 修士修了式にも来てもらった)
実現できるのは

本年度が
最後だからだ。

そして
本年度の授業料は
「それを実現するために
 使わなければ
 無意味」
だからだ。

とにかく
「査読を通過しうる論文を書き上げる」
それも
「本年度に博士号を取得しうる期限内に」
ということが条件だ。

そのために
必要なことの総(すべ)てを行い
そのために
不必要なことの総てを行わない
ということが必要だ。

その自覚と実行が
求められる。

その場合
自分の個性を
どこまでも守るか

それとも
査読論文
通すことを第一目的とするか。

しかし
査読論文を通すために
自分が間違っていると思うことは
できない。

そんなことを
してしまっては
濱田哲学が
濱田哲学でなくなってしまう。

濱田哲学の独自性は
宗教原理から語ろうとすることだ。

つまり
悟り(或いは啓示)を出発点とする哲学であろうと
することだ。

私が不満なのは
査読官の
誰一人
宗教体験を持たずに
哲学する者であることだ。

だからこそ
その査読に
説得力がない。

査読者は
私の論文を
落とす権利があるけれども

私には
査読官を落とす権利が
与えられていない。

上下関係を
固定した
査読は
果たして
正しくありうるか。

宗教は
論理ではなく
体験であって
論理的に不備であるという理由だけで
私の論文の意義を評価する
その方法が
私には
間違っているとしか
思えない。

語学の能力を
研究者の能力と
思い違いしている
学会の常識が
全然間違っている。

語学力よりも
宗教原理を掴む方法の
修得を
最優先すべきだと
私は主張しているけれども
今の
査読方法では
永遠に私の主張は
通らない。

通らないことを
知った上で
査読を受けることに
どれだけの意味があるのか。

だから
査読で
落とされても
なんとも思わないし
直そうとも思えない。

論理よりも
体験が先に
なければならない。

論理の先行した哲学は
哲学であるかもしれないが
宗教ではない。

しかし私は
シェリングの哲学的宗教の意義を
語るのであって

宗教哲学一般を
語るのではない。

その大きな違いを
(つまり宗教であって哲学ではないということを)
判っていない査読官に
何を言われても
得るところが
一つもない。

ここで
母の望みが
理不尽であることが
見えてくる。

つまり母は
私に「普通の人に成って欲しい」
(「博士号を取得して大学の先生に成って欲しい」)
と願っている。

しかし私は
普通ではないことが
私の独自性だ。
(そもそも氣多先生が言ったように
 研究者の「適性無し」が私の力量だ。
 ただし私は逆に
 研究者としての適性のある者は
 宗教を語る適性が無いと思う。
 なぜなら
 宗教を体験した者に
 論理は不要であるということを
 宗教を知った者は
 知っているからだ。)

なので
母の願いと
私の個性(適性)は
そもそも矛盾している。

にもかかわらず
親孝行したい気持ちは
息子として
極々自然な感情だ。

しかし
生まれついた適性は
これを変えることができない。

生まれついた適性を変えるということは
別人(別人格)に成るということだからだ。

何人も
生まれついた性分まで
変えなければならないとは
求められない。

生まれついた性分のまま生きることは
悪いことではない。

自分の適性を見極めたら
その通りに生きれば良い。

その人生が
生活力がゼロの人生でも
それが運命(宿命)なのだら。

私の必然性は
哲学(といっても哲学的宗教)の書物を
書き続けることだ。

それが
1円も産まなくても。

そのように
生まれついているのだから
しょうがない。

ただ
京大まで来た限りは
その書物で
一人でも多くの人を
哲学的宗教の意義を
感じてもらえればと
願っている。

その願いは
2005年12月8日から始めた
この mixi 日記で
伝わり難いということが
実証されている。

なので今後は
書物として残すことと
哲学的宗教解説動画として残すことを
これからの自分の為すべきことと
弁(わきま)えて
生きてゆきたい。

だとしたら
年金だけで生きれる環境を
構築しなければならない。

京都に居ては
年金だけで暮らせない。

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最終更新
令和2(2020)年6月2日 4時8分
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