mixiユーザー(id:2223977)

2019年12月07日05:03

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社会から拒絶されて人は生き得るか

人の命は
自然環境と切り離して考えることはできない。

社会(Gesellscjaft=利益社会のみならず Gemeinschaft=連帯社会も含めて)
に拒絶された場合

人は単独者(der Einzelne)と成らざるを得ない。

単独者(der Einzelne)
とは
キェルケゴール(1813−1855)
によって定義された哲学用語だが

神仏に目覚め
悟りや啓示に順(したが)って
真面目に生きようとすると

不思議と
社会が(その社会が Gesellschaft である場合は必然的に)
その人間を拒絶するようになる。

そして
利益社会の虜(とりこ)となるか
それとも神仏を生きるかの選択を
迫られる。

キェルケゴールが
「単独者」の意味として言うように
「たった一人で生きることに自信を持つ者、
 たった一人で生きることで満ち足りる「哲学の主人公」と呼ぶべき人物」
たりえない場合

人は
社会に「適応」し
社会に「生かされ」
主体性を失う。

私が目覚めた生き方は
私をして
キェルケゴールが生きたように生きることに
私の意図
(大学の先生になること、そしてそれは母の遺志でもあった)
とは裏腹に
導くのであった。

私はキェルケゴールを意図せず
図らずもキェルケゴールの生き方に導かれた。

この導きが
私の主観を超越しているだけに
この導きは
超越者の意図であろう。

キェルケゴールは
著述家として生きたらしい


私は最初から
「哲学書を残したい」
と言い続けてきた。

大学教授というステータスを
キェルケゴールは持っていなかったようだ。
にもかかわらずキェルケゴールは
哲学者として認められている。
(実存哲学の創始者として)

ただし、彼が最も意図した宗教的著述は
彼が有名に成った今でも
あまり顧(かえり)みられていないようだ
(上記のウィキペディア URL 参照)。

社会から求められているかどうか
人が求めているかどうか
に関わらず
自分がそれを為すべく生まれてきたと信じることを
為す生き方ができる人が単独者だ。

野に咲く薔薇のように
主体としては
Ohne Grund として生きるのが
(つまり「故なく」自然法爾に生きるのが)
悟道であり
神道である。
(ここで神道は神の道の意味。
 もちろん日本の神道を含むけれども
 それに留まらず神を主とする宗教総てを含む)

キェルケゴールは42歳で死んだ。

私は60歳まで生きることができた。

妻に見放されれば
私は長く生きれないだろう。

ゴータマ・シッダールタ(後の仏陀)は
妻を捨てた(子も捨てた)。

妻を捨てることは
(キェルケゴールは婚約者を捨てた)
道徳的罪ではないのだろうか。

道徳的罪を犯さなければ為し得ない真実は
果たして真実の名に値するのであろうか。

社会の意図に反する行為が
罪に問われないとしても
(単独者として生きることは
 反社会行為を為すことではないから
 罪に問われることはないし
 その存在自体を否定されることもないだろうが
 社会の意図に従わない生き方は
 仕事が得られないことを意味するので
 経済的に締め出しを喰らうことを覚悟させられる)

人の意思に反する行為を
為すことは
気が引ける。

この選択は
二者択一であるにも関わらず
どちらも捨てがたい。

「相手の意志を尊重する」
ということを
私は父から教えられて育った。

「自分がされたら嫌なことは
 人にもしてはいけない」
と母方の祖母から言われて育った。

道徳を犯すことが
自分の主体性を守る時に
天秤にかけられるとは

ほんとにこれが
直径全祖先の意志なのだろうか。

社会に見放されることはまだ耐えれても
また、人に見放されることも耐えれても
妻にまで見放されることは
妻が私を信じてくれているだけに
人の信を裏切ることなので
耐え難い。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」は
昭和天皇による終戦の詔勅(玉音放送)中の一節

だが
これによって日本は
主体性を失ってアメリカに逆らえなくなった。

今の日本は
生き延びることは出来たけれども
生き延びる選択は
主体性を無くす選択だった。

だからこそ
「耐え難きこと」であり
「忍び難きこと」だった筈だ。

みんな
「耐え難きこと」を耐えて
「忍び難きこと」を忍んで
生きている。

それが
「偉い」とされる。

主体性を捨てて
生き残ることを選択する生き方が
そんなに「偉い」こと
なのだろうか。

ここでの「主体性」とは
キェルケゴールが言う
「キリスト者に成る(宗教性 B を生きる)」ことを選択する
「全著作家活動の総体思想」
のように
自分自身の「エゴ(自分勝手、自己中心主義)
とは区別された「信念(主観的感情を越えて導かれた意図)」
を生きる「主体」のあり方を意味している。

そういう「生き方」は
常識的生き方を逸脱するので
変人と思われたり
穀潰し(ごくつぶし)と思われたり
しがちだ。

むしろ
「人でなし」
と思われるだろう。

そういう「常識」に縛られたくない。

けれども
常識は厳然と実在して
常に「単独者」として生きるものは
プレッシャーの嵐の中に立たされる。

その嵐の中で
生きる時
初めて「単独者」が成就する。

この辛さは
むしろ
歓迎すべき
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」
生き方なのではないだろうか。

なぜなら
主体性を失う生き方の方が
「単独者」を選ぶ生き方に伴う辛さよりも
「単独者」へ導かれる者にとっては
耐え難く忍び難い辛さ
だからだ。

とはいえ
この選択を決定するのは
キェルケゴールが言うような
「決断」ではない。

なぜなら
決断には
まだ主観性が残っているからだ。

この選択は
「超越者の意志」によって決定され
したがって
本人の決断を要することなく
自然に進行するのだ。

そういう「定め」であるかのように
「導かれて」
そういう人生に「いつの間にか」成る
のだ。

でなければ
それが「超越者」の
「自由な行為の帰結としての」
Existenz として
自分自身の人生を決しないだろうからだ。

「超越者」の
「自由な行為の帰結」に
順(したが)っていないで
主観の自由性に従って決断している人々は
社会の意志に従順に従って(つまり「適応」して)
社会の中で主体性を失う生き方をするのだから。

なので
私が「単独者」として生きる
つまり
キェルケゴールのように
「著述家として生きる」
ことは

私がそのことを
「超越者の意図だと気づいて選択する」
からだけではなく
同時に
「その選択肢以外が、自然に消える」
という仕方で
私の人生に Existenz して来た。

それが
超越者をして
私の人生が
決められていることの証拠だ。

もしも
それ以外の意図が
超越者にあるのなら

そのように
私の人生は
動かされることになるだろう。

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最終更新
令和元(2019)年 12月7日 午後3時33分
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