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2019年07月17日01:17

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今ごろ気づいた再考

自分にとっての生産手段が
哲学力だ
というのであれば
生産手段を資本家に奪われて
労働力を資本家に売らざるを得ない労働者と同じだ。

つまり
哲学力は労働力と
同じで
人間の能力に過ぎない。

生産手段とは
例えば
会社組織や学校法人など
具体的存在であって

労働力や哲学力のような
抽象的能力ではない。

だとすると
今の僕の所有物で
具体的な存在物と言えば
「下鴨の土地」だ。

けれどもこれは
母が僕が京都で大学の先生に成れる為に
残してくれた遺産であって
自分が相続したからといっても
そもそも自分は1円も出費していないのだから
母の遺志を無視して私有物として使えない。

そういうことをすると
資本家と同じ罪人に堕(お)ちるだけだ。

つまり
労働者から
生産手段を奪った資本家のように
母から土地を奪うことになる
からだ。

人としての purity(清らかさ)を保持したまま
哲人として哲学を生み出し続ける生き方を
人に迷惑をかけずに
資本主義社会で
行うことは
できるだろうか。

さっき
資本家と労働者の対立は
二元論の対立原理だ
と言った。

ここに
問題解決の糸口が
あるのではないか。

そもそも問題は
人が二元論を克服できないからで
あれかこれかという判断を
越えることができれば

哲学を続けながら
人にも迷惑をかけずに
済むのではないだろうか。

二元論の克服は
二肢言語の克服に通じる。

つまりは
中動態だ。

また
二元論の克服は
宗教に通じる。

つまりは
悟りと啓示だ。

けれどもこれを
認識論的に解決しただけでは
駄目で
存在論的に解決できなければ
結局は
哲学の追求が人を不幸にする
負のスパイラルが
止(や)まない。

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