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2019年07月16日22:13

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今ごろ気づいた

自閉完成界の超越性。

自分の世界は
独特で自立していて
外の世界とは無関係だった。

分かり合えると思っていたが
60年生きてきて
分かり合えないということに
今ごろ気づいた。


(出典:https://www.youtube.com/watch?v=AFyrrCXKKxQ

荒井由実が「ひこうき雲」の中で
「他の人にはわからない」と謳っている
そういう世界が真実在。

フォト

(出典:https://ellarecords.official.ec/items/6615590

共通項を持つもの同士は
幸せだ。

孤独が嫌いだとか
言ってる場合じゃない。
(これはだけど
 自分に言っているのではない。
 「人は一人では生きてゆけない」と言う人が大半だから
 そう言っただけだ。

 僕はもともと孤独が平気だ。
 孤独であっても
 孤独感を感じたことがない。
 孤独でない生き方のほうが
 自分にはできない。
 ただ経済力が無いから
 人と一緒に居るだけだ。
 人に助けられて生きているだけだ。
 人と合わせても幸せを感じたことは一度もない。
 自分の世界で生きている時が一番幸せだ。
 ただその幸せが現実の世界で潰されるだけのことだ。
 それを避けるために人と一緒の生活を続けているだけだ。)

孤独の中に光を見出せなければ
自分ではない迷いの世界を彷徨(さまよ)い続けるだけだ
ということに
今ごろ気づいた。

なので
自分の中に光を見つけることができた私は
幸せ者だ。

ただ
その幸せは
人を不幸にする幸せだ。
(なぜなら自分の幸せを現実的に保守する力は持っていなかったからだ。
 「そんなことやってみないとわからないじゃないか」と人は言う。
 自分もそうかもしれないと思って
 もう60年経った。
 60歳まで無理だったことを
 60歳を越えて可能だと判断するほうが
 気が狂っている。)

自分が自分であるために
人を不幸にしなければならない運命
その運命を受け入れられなければ
自分が一生救われない。
そして
人を幸せにするためには
自分が不幸でいなければならない。
両者がどこまでも
排除しあって両立しない。

そのことに
今ごろ気づいた。


(出典:https://www.youtube.com/watch?v=0I_M_fm5LD4

この音質の方が
先に出した音よりも良いと
アップロードした人は言うのだけれども
先に出した方を
最初に聞いて感動したからか
どうか
わからないけれども
自分には
先に出した方がナチュラルで良い音に聞こえる。
(iMacPro のイヤフォンジャックから Roland RH-A30 で聴いた時)

そういう感性は
自分の中で完成していて
他の人の意見を必要としない。

また
他の人の意見を聞いても
変化しない。

自分の中でも判断は
学習によって変化する。

けれどもそれは
自分が学習するから変化するのであって
人から与えられて変化するのではない。

経験値は
自分が積む時にのみ
自分の中に浸透する。

人から与えられた経験値は
やがて剥がれ落ちて無に帰す。

僕の聴覚は
小さい頃に父や母が
芦屋の金澤ピアノ塾で
ピアノを習わせてくれたお陰で
育成されたものには違いないのだけれども
そういった経験以前のアプリオリな感性は
そういった経験の有る無しにかかわらず
ア・プリオリに内在している。

僕は既に肝癌かもしれない。
(だからこそ医師は私に
 ダイナミック CT を勧めた。
 けれども造影剤の急速注入による副作用を怖れた私は
 それを断ったが
 「じゃあ単純 CT にしましょう」
 と肝臓の CT 画像を欲しがることは
 既に私の肝臓に腫瘍を医師が発見しているからだと
 推測しても間違いとは言えないから。)

それならそれで
死んでやる。

母と同じように
抵抗するものか。
(母と同じように
 抵抗しないで
 死んでやる。)

死を受け入れて
死のう。

ただ
自分の哲学は
人類のためになると
信じて疑わないので
この世に残してから
死のう。

学位を取ることが
先決だけれども
間に合わないのであれば
哲学を残すことが先決だ。

スピノザのように。

フォト

(出典:https://www.thejc.com/lifestyle/features/spinoza-the-man-who-dared-to-be-individual-1.57765

しかし
これじゃあなんだか
資本家と同じだなぁ。

労働者を不幸にしなければ
資本家は幸せになれない。
それが資本主義社会の運命。

そういう社会に
反対する立場の自分が
資本家のように
人の労働力を搾取して
生きて来たのが
今の自分だ。

母に家(京都下鴨の土地と家。新築時五千万円。)を相続させてもらい
(そのことを不動産業者が知って「売りませんか」と封書を送ってくる。)
年金まで母にかけてもらい(60歳に繰り上げたので9月から受給予定。)
生活費の総てを妻から搾(しぼ)り取り
自分は「哲学者として哲学書を歴史に残す行為」を
続けている。

そして
哲学を残す行為は
母と妻の犠牲を強いる。

資本家と同じだ。

これで
いいのか。

資本家は
criminal(違法者=犯罪者)ではないが
sinner(宗教・道徳上の罪人)だ。

今の僕は
資本家と同じように
罪人(ざいにん:つみびと)なのだ。

今の社会は
自民党と共産党が
手を組めないシステムだ。

いや
自民党と共産党が
手を組めないのが
二元論の認識なのだ。

資本家の為に存在する自民党と
労働者の為に存在する共産党が
手を組める
つまり
一つになれる倫理(エチカ)を
追求したのが
スピノザだったのではなかろうか。

マルクスの分析によれば
資本家と労働者が対立するのは
労働者から資本家が
生産手段を奪ったからだ。

労働者は
自立して生産する力を
資本家に奪われたから
労働力を商品として資本家に売らざるを得ない。

資本家は
生産手段を所有しているので
労働者から労働力を雇用関係を結んで使用し
価値を含む商品を生み出し
商品を販売して得た利益を
労働者と結んだ契約に準じて還元する。
この時
資本家は
生産手段を持っていることを権利として行使して
労働者から得た労働力の使用によって得られた価値よりも低い賃金を
支払うことで利潤を得る。
(この論理は
 地主と借地人との関係にも通じる。
 地主は土地の所有権を行使して
 借地人から収益を得る。
 地主と借地人との関係は
 何年経っても地主の優位が不動だ。
 借地人が地主から
 土地を買い取るまで
 地主優位の関係は変わらない。
 この関係は
 資本家と労働者の関係と同じだ。)

労働者は
生産手段を奪われたままでは
資本家に収奪され続けるだけである。

なのでマルクスは
労働者に主導権を与えて
社会主義から共産主義の社会体制にすれば
労働者と資本家の
相互に分かり合えない関係は
終わると考えた。

しかし
問題は
それほど簡単ではない。

社会体制や
国家権力というものは
一度出来上がると
そう簡単には
覆(くつがえ)らない。

万人に気づかれるほどの
矛盾が露呈しない限りは。

資本家にさえ
「これじゃあ駄目だ」
と気づかれ
労働者にも
「もう無理だ」
と明らかに気づかれる
そういう矛盾が暴露されなければ。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆   

ところで
今の資本家と労働者の対立原理を
自分に当て嵌(は)めて考えると
自分が罪人であるのは
自分が単に資本家であって労働者ではない
からだ。

マルクスが目指した共産制社会は
生産手段を資本家が独占するのではなく
社会の共有物に生産手段を還(かえ)すことで
(したがって生産手段は労働者の所有物でもあるので)
労働者が
労働力を資本家に売らなくても
生きてゆける可能性を
労働者に返すことで
資本家という存在も
労働者という存在も
無くなり
資本家と労働者という二元論(格差)が
消滅する社会だったと思う。

僕の問題は
けれども
生まれつきのように思われる
経済力(生産力)の無さだ。

自分の中の
生産手段を
自己所有できれば
僕は
生産力(経済力)を確保出来
妻から搾取することなく
哲学書を残す行為を
続けられる。

僕にとっての
生産手段とは何であろうか。

それは僕の哲学力(哲学する能力)だ。

けれども
哲学は
資本主義社会では
無用とされている。

けれども
僕にできることは
ただ哲学し続け
哲学書を残し続けること
であって
金儲けではない。

哲学することが金にならないのであれば
自分は妻に愛想を尽かされて
別れられるだけだ。

それでいい。
妻に哲学の価値は
解らなかった。

生活できても
哲学を辞めたら
僕は僕でなくなるだけだ。

山宣ひとり孤塁を守る。
板垣死すとも自由は死せず。

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最終更新
令和元(2019)年7月17日 午前0時41分
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