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2019年12月06日04:08

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「ジョーカー」見てきたよ(ネタバレかなりあり)

月曜日に見てすぐに書くつもりが、しばらく映画の感想文書いてないのですっかりさぼり癖がついてしまって、このまま書き忘れそうなので、ちょっと簡単目な、Twitterで連ツイでもいいくらいの分量で。
あ、たぶんネタバレしますのでw






えーと、上映開始から予告編入れて2時間半だから実際は2時間強か。でも冒頭から最後まで緊張しっぱなしで見ていました。「手に汗握る」という類いではない、かなりホラーに近いんだけどやっぱり違う、「怖さ」があふれていて、ほとんど息が抜けなかった。
そういえば、この映画を見た感想で「自分の中にもジョーカーがいる」みたいなことを結構いろんな人が言っていて、でもあたしはちょっと違う感想を持った。うん、ジョーカーが、他のDCコミックスや映画は知らないけど、少なくとも、この映画の中にいるジョーカー、いや、アーサーは「普通の人」でしょ。普通の人なんだから、そりゃあ自分もこうなるんじゃと思うのは当たり前な話で。
うん。数多あるバットマンサーガに出てくるジョーカーの前日談、とすれば、なんかすごいエピソードとか、ジョーカーがジョーカーとしての衝撃的な目覚めを迎えるとか、そういうことを脚本に書きたいと思うんだろうなー、普通だと。ところが、この映画の中に出てくるジョーカーは、本当に普通の人としかいいようがない。貴種流離譚やサイコパスといった逃げ道さえ許さない(前者はさすがに具体的には触れないけど、お屋敷にまで逢いに行ったあれね。その後の病院の記録を奪い取って読んだら違っていたという奴。後者でないのは、マレー・ウイリアムズ・ショーに行く直前に訪ねた、元同僚の二人のうち、小人症の方は「君だけは優しくしてくれた」と逃がしているところ。パラノイアだったり殺人快楽者だったりしたら「君だけは優しくしてくれた、だから、苦しまないように殺してあげるよ」ってなるよね、たぶん)。
最初の殺人にしてもそう。スノッブな奴3人が女に絡んでいるその矛先が自分に向いてきた。冒頭でガキにさえ看板を奪い取られてボコボコにやられていたアーサーだけれど、今は銃を持っている。だから反撃した。衝動的な殺人。警察なりがちゃんと機能していたらそこで捕まって、たぶん正当防衛は無理でも情状酌量があって、刑務所で罪を償って、という、底辺ではあるかも知れないけれど「普通」な人間として扱われて然るべきだった。

でも、その直後の、トーマス・ウエイン(ブルース・ウエインの父親、ということは、はい、そうです)のインタビューというかコメントがすべてを変えてしまった。アーサーの犯した殺人を、社会への挑戦と位置付けてしまった。ただの衝動的な自己防衛的な事件だったはずなのに。自らがゴッサムの首長に立候補するという行動を正当化するために。そして、メディアもそれを受けて、事件を社会への報復だと位置付けてしまう。
「オッカムの剃刀」というものがある。物事の説明をするのに必要以上に仮定を多くしてはいけない、というものだ。だが、彼らはまだ全容がわからない事件に、必要以上の仮定を立ててしまった。そして、ただの普通の人間のアーサーを巨大な悪魔化してしまった。
正直、なんの殺戮シーンもない、アーサーと母親がテレビを見ていてその中でトーマス・ウエインがとうとうと「正義」を語るそのシーンが、あたしはこの映画で一番怖かった。

そしてそういう「悪魔化」は、荒れるゴッサムの反権力者たちも同じ事だ。
目撃証言の「ピエロ」は、反権力運動のイコンとなり、抗議集会に、正体を隠すためもあるのだが、ピエロの格好で出かけることになる。かつての現実社会で、「アノニマス」があの仮面を付けていたように。今も香港で勇武派が黒のマスクに黒装束で「暴徒」と化しているように。
さっきのシーンと並んで怖かったのは、この物語のラスト、クライマックスでテレビショーのメインパーソナリティ、マレー・ウイリアムズを撃ち殺して、パトカーで連行されるときに、そのパトカーが襲撃され、「ジョーカー」となったアーサーをパトカーから助け出し、意識を取り戻した「ジョーカー」を暴徒たちが賞賛するシーン。あそこで、アーサーは、「ジョーカー」という英雄として祭り上げられてしまう。

「ダークナイト・ライジング」でクリストファー・ノーランが提示した「誰でもバットマンに、ヒーローになることが出来る」と同じ。いや、あるいはもっと強烈なテーゼかも知れない。
「誰でもジョーカーになれる、いや、されてしまう」

そう考えると、あまりにも有名になった、あの長い階段を「ジョーカー」になったアーサーが降りていくところは、象徴的すぎるかも知れない。アーサーとして、苦しみながら登っていった長い階段を、「ジョーカー」になったアーサーが、喜びを身体中に表して踊りながら、階段を降りる、いや、人生の「何か」から降りていくシーン。うん、人生の「何か」から解放されて好きにやっていくことに覚悟が決まったときの晴れ晴れとした感じは、まさに「普通の人」でしかない。

というのを考えてたら、別に70年代後半から80年代初頭の米国の社会事情(たぶん、レーガン期前半の経済政策がうまくいかずに小さな政府を目指していた辺りの頃の社会状況がモデルでしょあれは)とか、児童虐待だとか、貧富の格差だとか、そういうものがこの映画では、説得力を増す材料でこそあれ、やっぱり飾りでしかないように思えるなー。たぶん、今の社会情勢との共通点を見いだして関連付けたがる人もいるだろうけど。

ただ、ちょっと意味がわかりかねているのが、この映画に「The END」マークがついたところ。使われている音楽が古き良きアメリカのスタンダードっぽい曲が多かったりするから、いにしえの映画のように付けたのか。それとも何かが「終わった」という意味なのか。「ジョーカー」の人間らしい物語はここまで、と言うことなのか。エンドロールがスクロールでなくスライド方式だったのもあるから、最初の推測が一番正しいようなキモするけど、実はよくわからない。

しかし、DCは、本筋のジャスティス・リーグ系はいまいちなのに、「ワンダーウーマン」と言い「ジョーカー」と言い、再度セット的な作品にいいものが出来るのは、なんなんだろうかねぇ(,,゚Д゚)
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