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2019年10月20日02:44

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佐竹本三十六歌仙

今後100年は開催不可能!?
そして東博巡回はありません。


流転100年
佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美
@京都国立博物館
フォト




藤原公任が優れた歌詠み人として選んだ三十六歌仙。
「佐竹本」は鎌倉時代に描かれた二巻の巻物で、
下鴨神社から秋田の佐竹侯爵家に伝来したことに名前があります。


この絵巻は大正時代に売り立てに出されましたが
あまりに高価なため、買い手がつきませんでした。
そこで優れた茶人でもあった益田鈍翁の発案により
絵巻を1歌仙ずつに切断して売られる事になったのです。
三十六人+住吉大社の三十七枚に分割された絵巻は
御殿山(当時)の「応挙館」で1919年12月20日に
くじびきにより売却されました。


本年はその「絵巻切断」から100年。
様々な流転を経て31枚が一同に会する希有な展覧会です。


展示替えがあります。
現在みられないものは
【10/29〜11/6展示】
・柿本人麻呂(出光美術館)
・僧正遍照 (出光美術館)

【10/29〜11/19展示】
・大中臣頼基(遠山記念館)

【11/6〜11/19展示】
・藤原敦忠
・小大君(大和文華館)
・山辺赤人
・源順(サントリー美術館)


所属が明らかにされていないのは個人蔵でしょうか。


【そもそも出品されないもの】
・斎宮女御
・藤原清正
・凡河内躬恒
・猿丸太夫
・中務
・伊勢


現在24幅が2階の5室に展示されています。
つまり1室5幅くらいずつですが
それももっともなほど各々が


大きい


のです。京博に行かれた事のある方なら、展示室の大きさと天井の高さ
はご存じでしょう。それが1つの壁面に1〜3点。


分断されただけでは紙、それをそれぞれの所有者が凝った軸に
仕立てているので、その表装もみどころです。
たとえば
◆坂上是則(みよしのの・文化庁)
では、中まわしと柱に歌意にあわせて鹿のあそぶ雪山が描かれていたり
◆紀貫之(さくらちる・広島耕三博物館)
では、豪華な扇模様の錦が使われていたり。
図録ではその表具を全て見ることができます。


北村謹次郎は所有する
◆藤原仲文(ありあけの・京都北村美術館)
を生涯ただ一度だけ自身の還暦の茶会に使ったといいます。
大切にしていたのですね。
(その折に同時に使われた景徳鎮窯の花入れも出品されています)


もともとの姿をしのぶものとして巻物だったときの箱
◆月丸扇紋絵巻物箱


◆三十六人家集模本(田中親美作)
模本だとあなどるなかれ。巻物だった姿そのままに
シミまで忠実に再現されています。100部つくられ、旧所有者らに配布されたそう。


切断の証人
◆籤引きのくじの入っていた竹筒の花入れ
◆会場・応挙館の障壁画(円山応挙)
など興味深い資料もいろいろ。


3階展示室には京博のお宝も出ています。
◆手鑑「藻塩草」(国宝)
◆本阿弥切 古今和歌集巻第十二残巻(国宝・伝小野道風筆)
◆三十六家集(国宝)など。


個人的に好きだったのは
◆州浜鵜螺鈿硯箱(重文・平安時代)
入隅型(角が丸い正方形)で蓋には透かし切の夜光貝の波で
埋め尽くした州浜型の岩の上に翼を拡げた鵜、
周囲には千鳥が蓋に25羽、蓋と本体の側面に8羽ずつ。
硯も入隅型でした。


【講演会】


歌仙絵の成立と展開ー佐竹本への道のりー
講師 東京国立博物館主任研究員 土屋貴裕


A4に4ページぎっしりというレジュメが配られました。
以下お話の流れのメモ。

歌仙絵とは、という基本から


佐竹本はどこがすごいのか。
・大正時代まで三十六人揃っていた
・国宝級絵巻の切断(実際は糊をはがした)
・流転をめぐるドラマ
・価格も国宝級
(ハロウィンジャンボ宝くじの1等・5億円では1点しか買えない)


と「佐竹本神話」とも言うべき状況ではありますが
実際のところ何がすごいのか、専門家でもハッキリ答えられません。
水をさすようですが駄目なところもあるそうで
たとえば
・斎宮女御
・小大君
は歌仙の経歴に全く同じことが書いてある。
まあ小大君の方が誤りなのですが、一番古いのなら誤りはないはず。
つまり佐竹本は突然出たものでなく受け継がれたもの、よって
★佐竹本は「現存最古の歌仙絵」ではないことになります。
では佐竹本の価値とはなにか。


そこで
歌人の肖像を描く営みとして
平安時代の
◆前麗景殿女御歌合
◆治承三十六人歌合絵
鎌倉時代の
◆似絵詞
◆北条時宗が作らせた三十六人詩歌屏風
などをたどると


★藤原公任の三十六歌仙の絵画化記録は少なく、
多くが同時代の歌人の肖像に関する記録画です。


またいっぽう、後鳥羽院が配流された隠岐で
八代集から時代の異なる歌人を選んだ仮構の秀歌撰
◆時代不同歌合絵
の成立と、後鳥羽院没後の隆盛の秘密を解き明かします。
時代不同歌合絵は多くの中世歌合絵に影響を与えました。
ポーズや衣装の描き方がそっくりなのです。
★しかし佐竹本では全く異なるものが多く、系統が違うことがわかります。


佐竹本の成立年代について。
佐竹本の伝承筆者は、絵:藤原信実(1176-1265)詞書:京極良経(1169-1206)
そのとおりなら1206年には成立していたことになります。
ところが
後京極様の承久本北野天神縁起絵と比較すると
佐竹本の詞書きは承久本巻三第一段、第二段に似ている
承久本第三巻第三段と新名所絵歌合(1295)が似ている
→よって佐竹本の成立は1295年に近いという説が出てきています。


さらに細い線をひき重ねて描いていく白描の「似絵」に対して
佐竹本はつくり絵の線で濃彩淡彩が施されていることから「やまと絵」です。


さらに「仏像は耳、画は鼻を見よ」にならって鼻梁の表現をみてみます。
すると伝源頼朝像と
佐竹本の壬生忠岑は似ていないが坂上是則は似ている。
佐竹本は一人の手によるものではないのかもしれません。


料紙についていえば。
強い雲母(きら)引きであり、このことも鎌倉中後期であることを裏付けます。
紙のサイズも大きい。
上畳本の天地は30cm、業兼本は28cm、後鳥羽院本は15cmに対して
佐竹本は36cmもあります。


住吉大明神の存在も珍しい。

下巻の巻頭であるので、バランスとして上巻巻頭にもなにかあったのではないでしょうか。
あるとすればそれは玉津島明神ではないか。

弘安本北野天神絵巻と線のひきかたが、男衾三郎絵巻と下草の描き方が似ているし、
西行物語絵巻と俯瞰的なところが似ている。
(表現のうえからも13世紀後半の成立を思わせる)
そして一般には老翁として描かれる住吉大明神をあえて景観で描いたのは何故か。
それは御子左家と反御子左家という歌道の家の対立からとけるのではないか。


・・・等々、基礎の基礎から研究の最前線まで幅広いお話でした。

講演会のあと、歌仙絵の「鼻」を確認しに行ったことはいうまでもありません。


展覧会は11月24日まで。
https://kasen2019.jp/
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